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無駄な事、でした。
呼んで下さりありがとうございます。
いつも真剣に書いているのに、
読者様が増えない(ノД`)シクシクシクシク
この詩は、無駄はあるのか、
ということを、犯罪的殺人、
政治的殺人、というものから、
ちょっと考えてみたというものです。
学友と政治について語らいまして、ちょっとそのことも入れたかったので。
でもそれは比喩的なもので、主題は「ムダな時間はあるのか」という問いで、私にマリファナを教えたある人が、「俺はムダな時間はないと思う、兄貴はムダな時間があるというんだ」と私に語りかけたことをずっと覚えていたということにあります。
ムダ、を、意味がない、すなわちゼロ。
そう考えた時にムダはあるのか?
というのがずっと疑問で、思い出しては「ムダな時間はあるともないとも言える、価値観次第なのだろうか……」とずいぶん長い歳月を時折ボーッと悩んでいた内容です。
私の暫定的な結論が今日出ました。
「相対的なムダはあるけど絶対的なムダはない」という結論です。
それより良い結果があった、という意味でムダな時間があるとするなら、それは相対的なムダな時間です。
そもそもそれは必要でなかった、というなら、それは必要でないという判断に基づいてのムダな時間で、やはり価値観の問題です。
それが無い方が良かった、というなら、それも当然ネガティブな意味ですがムダな時間ではないでしょう。
それでも、何かもっと良い選択がある、その選択はどうにも効率が悪いだとか、自分でも価値を感じない、例えば怠けている時間などは無駄だと感じますよね。
それは相対的にムダではあっても、怠けるというのも生理現象としては無駄ではないし、4年間家に引きこもった経験が私にはありますが、それは無かった方が生きやすかったから私にはムダですが、自分史上何らかの意味がある時間で、引きこもった時、家族が私に受けた影響やしてくれたことはムダではないでしょう。
だから、絶対的なムダはないのです。何らかのより有益なことと比較してムダがあったと考えるのは便利ですが、効率を追求するのはムダである、なんて考えもあり、それをムダな考えとはたぶん思わないですよね。
これが私の結論です。
12年分からないままでした。
ちなみに、友人に8年ほど前に「主観的な無はあるが客観的な無はない」と言われたことがとても印象的だったのを覚えています。
適切で内容の深い言葉です。
死んで無になるかどうかは、信仰や考えの世界の話しであり、本当に定かではありませんが、少なくとも科学的には人は死ねば無になり、感情も感覚も意識もなくなるというのはだいぶ流行りました。
寝ている時を無と感じるとその友達は言っていましたが、睡眠を無と感じるのなら、確かに言葉の通り主観的には無でしょう。
ですがその存在は観察可能で、客観的には無とは認められません、必ず誰かが、自分が寝てるところを見ることが出来るし、死んでしまっても思い出します。
自分という存在が他者や世の中に与えた影響が無なんて考えることも、到底難しいと言った方が普通でしょう。
仮に宇宙が消滅しても、「この時、ここに存在していた人がいる」という事実は、無ではないのではないでしょうか。誰も意識を持った人間がなくなったとしても、それを観測たり、記録したりしている存在があるとしたら……おっと、飛躍しすぎました。
ひとまず私の結論は「相対的なムダはあるけど絶対的なムダはない」でした。大変屁理屈のような話でしたが共感して頂けたでしょか。
このような事ばかり書いてきていますが、たまに読みに来てくれる方がいたらもっと頑張って考えます。コメントも嬉しいですし、今はこの『Number 8』を書くのが生き甲斐なので、読んで下さることが本当に有り難いです。いいなと思ったら本棚に追加して頂けたら、はしゃぎ回って喜びます。いつもりがとうございます。
今日は、このへんで。
2019.07.13
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