私の引きこもり時代

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私の引きこもり時代、でした。 読んで下さりありがとうございます。 ムダな時間はない、というようなことをこの間書いたと思います。 今回引きこもりの事を書いたのは、私のこれまでの時間の中で、何が後に一番後遺症のように残った時間だったか、と考えた時に、引きこもりだった経験が大きかったと考えるからです。 私は中学校に入ると直ぐに引きこもりになり、その後暫くして新潟県のフリースクールで過ごした後で、また高校2年生くらいから引きこもり、半年以上の社会との断絶だけを合わせても、10代で4年半くらい引きこもったと記憶してます。 10代って自分の生き方をまさに獲得していく時期で、この時期に他者や社会が恐いという感覚を徹底的に刻み込んだのは、その後の私の人生に大きな不適応を産みました。 卵が先か鶏が先かみたいな話しになりますが、生来そういう傾向があったからそうなって、その後つい最近まで(今も続いてますが)暗い人生を歩んできたのか? それとも、何かあったからそんな暗い過去を背負い、それが今まで続いてしまっているのか?……これは分かりません。 私は、自分が愚かな人間だと虐めることはしたくないですが、本当に人とコミュニケーションをとるのが未だに苦手で、その上時間が無限にあるかのような、スケジュール管理の出来ない人だったりします。 多くの引きこもりの人と接したわけではありませんが、長い引きこもりを若いうちに体験したことで、どうも人と接する場面が少なかったし、時間を管理しようというスキルが身について来なかったのではないか、これはあるかもしれないのです。 例えば少しエグい話しになるのですが、幼児期から一切コミュニケーションをとらしてもらえず、虐待を受け部屋に閉じこめられてた子供や、野生で育ち、後に大きくなり発見された子供の例があります。 後にそういった劣悪な環境に晒された子供を発見し、専門家が後から、社会に適応するように教育しようとしても、中々難しく、適切な発話をすることすら相当に困難、もしくは出来なかったという事例です(正確な引用にならず申し訳ありません)。 それと同じ理由で、引きこもり、特に成長期での引きこもりというのは、その後にかなり適応の困難さが残るのではないかと思うのです。 また、やっぱりこの問題と切り離せないのが、いじめや発達障害、それが後の様々な障害とどう結びつくかということですね。 私自身、どんなことでも乗り越えさえすればそれは生きる上での力になる、と楽天的に信じてきたところがあります。これは違うかもしれません。私の独特の考え方というのも、私の力だし、過去の経験から来るもので、多少変でも個性、ではあるでしょう。 ですがその一方で、力そのものが発揮出来なくなる問題、それが後も持続的に力を失わせる問題、ってやっぱりあると思うんです。 私は14歳から病院の入退院をしていますが、薬を飲んだり、死にかけたり、ということも、大きな問題で身体に負担のかかる事ではあるのですが……『誰とも関わらずに一人きりでいる長い時間』という経験は、心だけでなく、身体や、脳の機能のレベルまで低下させたり、その時に獲得する課題を達成出来ず、その後の人生でも悲劇を繰り返してしまうことに繋がりかねないと思うのです。 だから、私にとってなかった方が良かったかな、と思うのは『誰とも関わらずに一人きりでいる長い時間』です。これを前回の話しで語るのはあまりに扱い方が違うと思うのでそれはしません。 そんな経験があっても、その後に誰かと関わってきたから、今の自分があるのだな、最低限、人間らしく生きられるのだな、と感じると本当に感謝する他ありません。 そして、そのように私を助けてくれた人が居たからこそ、詩を使っても、心理学を使っても、同じように苦しんでる人にの力にはなりたい、そんな想いがあります。 引きこもり、という社会現象は、その背後にレベルの強い苦悩や傷が潜んでいるからこそ、起こる場面も少なくないと思うのですが、その問題に対し家庭や教育の現場で対処が出来る専門家はそれほど多くないのではないか……?と、調べたわけではないですが、そんな印象を受けます。 私は幸運にも、4年半の引きこもりの後に友人や家庭でのフォローに恵まれ、かなり問題が残っていても他者から容認出来る存在に変わって来ることが出来ました。 でもそんな誰しもが周りの助けを得られるとは思えませんし、私自身、本格的な社会集団、チームなどには未だに適応出来ないでいます。 それでも、多少なりとも考える力がついた今になって、この問題に対する声を私自身が上げていくことも必要ではないかと考えるに至りました。 本当に書きなぐりのようでお見苦しくて申し訳ありませんが、引きこもりで人生の大事な時間を失われる方は今の社会でも依然として大きいのだと思います。 それがいけないと言うのではなく、その時も苦しいし、後にも苦しい、場合によっては障害も産む、それをどう適切に社会参加に繋げていくか、というのは、随分昔から言われてる重大なテーマだと思うのです。 つまり、苦しんだ末のことなのに、社会悪のように扱われる現実がある。 私自身、まずは自分の問題を克服して、過去の自分より更に凄惨な引きこもりの問題で苦しむ人と向き合いたい、その人たちのために声だけでも上げていきたい。必ず巡り合うのだから。そう思います。 そんな殴り書きでした。 今日はこれで失礼します。 2019.07.21 放送大学の単位認定試験の初日に
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