第2章 邂逅

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第2章 邂逅

 このピョンと僕の運命を紐解くために、申し訳ないが30年ほど時点を移動させていただく。    (ちなみに今、僕は、虹色の人生によってすっかり自分を自分だと判断できなくなったらしい。いろんな色が混じって、透明になり、目が回ったまま色彩感覚さえ疑って卒倒してしまう。丘の上の閉鎖病棟にある大きな窓から空を眺めては青だ、青だと呟いている)            1980年代後半。東京・多摩のベッドタウン。第2次ベビーブーム。まだ団地にも黄色い子供の声が溢れていた。日本にもまだ希望と活気が漲っていた時代。    中2でバスケット部を早々にドロップアウトした僕は同じような帰宅部の連中と団地の公園で、スケボーをしたり、エアガンで遊んだりして毎日をダラダラと過ごしていた。ラジカセを持ち出してはM・ジャクソンやビ―スティーボーイズをかけて地べたでペプシを飲んでいた。    父は画家で、僕らが国分寺という街に住んでいた時には、庭にアトリエをつくって絵を描いていたが、母との折り合いが悪く離婚を機に引っ越しをして、フランスだのイタリアだの、インドなどを放浪して、いったいどこにいるのかはっきりしなかった。    東京G大を首席で卒業したのに、父は売れる作品を作らなかった。学内に残ってしたたかに生きていれば、いまごろ凄い肩書になっていたんだと僕は思う。  頑固な父は売れる作品を作らなかった。どんどん出世して名前が知られるようになっていく同級生や後輩を父は蔑(さげす)んだ。  師事する教授が夭逝すると出世の道が断たれた。いや,断ったのだ。もっと依怙地(いこじ)になって孤高な人になっていった。頑固で昔気質な父は、家庭で音楽やゲーム、ディズニーランドの話さえ許してはくれなかった。      そんな父が離婚して家からいなくなったから、まるで我が家には日本に進駐軍がやってきたように自由と民主化の波がやってきたのだ。    母は父に比べ、自由奔放なお嬢様育ちで、美大を目指しているときに父と出会った。父とは違ってリベラルでラディカルな人だった。離婚を機に多摩地区の団地で僕と母と弟の母子家庭の生活が始まった。        毎日外で怠惰な時間を過ごす僕を見て、なぜか母はY社製の黒いアコースティックギターを買ってくれた。ピックアップのついたアコースティックギター、通称エレアコだ。    コードを覚えるのに1カ月、コードで音が出るまでに1カ月はかかったが、コツは弦を押さえる左手をいかに前に出せるかで楽に音が出ることがわかった。幸い指は人より長いほうなのでそれほど苦労しなくて済んだ。    しかし壁はそこからだった。コピーができないのである。M・ジャクソンだってボンジョヴィだってレベッカだって、コードもわからないし、ついていくことができない。    考えて古典に行きついた。母のカセットに謎の「ビートルズ」と書かれたものがあった。  Love Me DoやLet It BeやObladi-ObladaやWhen I’m Sixty-four・・・。今思えばメチャクチャな選曲だなというオリジナルのカセットだった。  どれもキャッチーで知っている曲ばかりだが、ちょっとダサいかな、小学生が聞く曲? という印象だった。  でもこれなら弾けそうだ。楽譜を買ってもらい、貸しレコ屋に通ってアルバムをダビングし、本や雑誌でビートルズを研究した。      目から鱗だった。(こいつらタダモノではない!)  初めて聞く曲に僕は戦慄を覚えた。  アルバム・アビーロードのStrawberry Fields Forever プリーズプリーズミーのI Saw Her Standing There リボルバーのShe Said She Said ウィズ・ザ・ビートルズのRoll  Over Beethoven パストマスターズ2のRainやHey Jude  ザ・ビートルズのWhile My Guitar Gently WeepsやBirthday・・・。(ああ、どれを聞いていてもきりがない!)僕は気が遠くなった。神様のように売れて、好き放題に曲を作って、酒と薬に溺れて、メンバーと喧嘩して、それでも叶わぬ愛を追い求めて・・・そうして出来上がった曲たちは、どれもクールなメッセージに溢れていた。    はやく学校が終わらないかと待ち遠しかった。帰ってビートルズの練習だ。ニイニイ蝉が鳴きはじめた梅雨空も僕にはなんか素敵に見え始めた。      僕にも中2病やってきたのだ。    僕がアヤツと出会ったのはちょうどそんな頃だった。           *    
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