第十九話 望むところ

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第十九話 望むところ

驚きのあまり声も出せない私を、スーツ姿のこの男は薄気味悪い表情をして見下ろしている。 口をわなわなとさせて何かを言おうとすると、男は自分の人差し指を口に当てた。 「わめいたりしたらどうなるかわかるよな」 まだ床に転がっている弟の体を全身で庇いながら、私は男を睨みつけた。 胸には社名のロゴを変形させた社章が光っている。 「きみにはわかってもらえないかもしれないが、私は彼女が亡くなってから毎日自責の念に駆られているんだよ」 そう言って男が一歩私たちに向って踏み出すと安アパートの床が重みで軋んだ。 「でも最近では考え方が変わってきたんだ。知ってるかもしれないけれど、彼女は長い間精神科に通っていたんだよ」 私は硬直しながらも弟の身柄だけでも確保してもらうよう懇願してみようかと思った。 「きっと精神的に病んでいて、自殺を望んでいたんじゃないのかな」 そう言いながら男はキッチンと居間の間にある引き戸を後ろ手で閉めた。 「言っておくが、彼女の方から私に気がある素振りを見せてきたんだよ」 充血した男の瞳から目を逸らせないでいる私は、やはりこの人は私を始末しに来たのだろうなと思った。 「部下としては出来が悪くて使い物にならなかったから、いつも上目遣いで私に媚びてきたよ」 何か武器になるものはないかと思い、部屋をちらりと見回したが、目に入ったのはミネラルウォーターのペットボトルだけだった。 一か八かと思った私は、ローテーブルの横に置いてある電話に飛びついて受話器を取り上げようとしたのだが、男に信じられないぐらいの勢いで体当たりをされ、妨害されてしまった。 後ずさりをしながら私はやっと口を開いた。 「瞳を殺しておきながら自分はぬくぬくと生きているなんて許せない」 すると男はきみはあの場所にいなかったのにどうして私が彼女を殺したと証明できるんだい?と微笑した。 彼の笑顔を目にして、この男ははやり人格が異常だと思った私は胸が悪くなってきた。 「瞳の気を引こうとしたのはそっちでしょ!」 そう叫ぶと私は何日も前に弟が飲んでいたビールの空き缶を彼に投げつけた。 すると彼は軽快に身をかわし、きみは自分に残された時間というのがわかっていないようだなと言った。 先ほどから後ろに回していた男の手に肉切り包丁が握られているがわかった私は絶句し、なぜだか咄嗟に功太郎のことを思った。 最後に会ったのはいつだったか・・・。 瞳の死から一年しかたっていないのに、今度は私の死を乗り越えさせることになるのか。 目を閉じると、そんなのは嫌だと思った。 瞬時に最悪の場合を考えてしまったが、諦めるのはまだ早いと思った。 私はその辺にあった衣類を次から次へと男の顔めがけて、無我夢中で投げつけた。 男がひるんでいる間に腹ばいになりながら引き戸を開けると、隣のキッチンへと向かった。 すると男が声を荒げながら私の後を追い、馬乗りになってこようとするので、私はわけのわからない言葉を喚きながら男の制止を振り切った。 ステンレスのキッチンの足元に料理酒の瓶を目にした私は、それを手に取ると思い切って男の肩に振りおろした。 男は相当頭にきたのか、私に怒声を浴びせてきたが、興奮している私はもう彼の言葉が聞き取れなかった。 今更ながら人通りのない近辺にアパートを選んでしまったことを悔やんだ。 男が平手でひっぱたいてくるので、私は無我夢中で男の顔を引っ掻いたり、足をばたばたさせて蹴り上げた。 そのとき手の甲に鈍い痛みが走り、私はとうとう自分は殺られるのだろうと覚悟した。 すると居間からエアコンのリモコンがくるくると宙を舞い、スコンと男の頭に命中した。 私の帰宅前に体中を殴られたと思われる弟が、引き戸にもたれながらそこに立っていた。 弟は私に目配せをすると、ポットだと合図を送った。 そうかと思った私はすっくと立ち上がると、炊飯器の隣に置いてあるポットに手をかけ、蓋を開けた。 いつもならその湯気の熱さに怯むところだが、今日は何も感じなかった。 有無を言わせず熱湯を彼の体に浴びせると、熱さのあまり男はウォーと怪物のような声を出してのたうち回った。 あまりにも激しく転がりまわるので、まだ男の手の内に収められている刃が私の足首やすねを切りつけてきたが、アドレナリンが分泌している私には何も感じることがなく、足元で悲鳴を上げる頭のおかしい男をただ見下ろすだけだった。 そのとき玄関の方からドンドンと激しくドアを叩いて私たちの様子を訪ねてくる男の人の叫び声が聞こえた。 さすがに人気のない通りにあるアパートでも、これだけ大騒ぎすれば不審に 思う人がいるらしい。 重度の火傷を負ったであろう男を家に残して、私と弟は幼い頃のように手と手をしっかりと握るとアパートの外で警察が来るのを待機することにした。
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