第1話「女子高生×黒服男」

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◇  午後の授業に数学を持って来るのはやめてもらいたい。眠気と戦いながら数式の羅列を眺める最中、自分より前の席のクラスメートがポツリポツリと机に伏せていく姿を見ていよいよ自分も根負けしてしまおうかと千縁は頬杖をつく。  こんな時は窓の外を見るに限る。目と目が合わぬように細心の注意を払いつつも、自分にしか見えないものを探してみる。そしてそれを見つけた時は想像するのだ。何故浮かばれずにこの世をさまよっているのか。あの世への道に迷い迷子にでもなっているのか。何か未練でもあるのだろうか。会いたい人でもいるのだろうか。家族はいたのだろうか。恋人はいたのだろうか。  そんな風に時々勝手な想像を巡らせては眠気を誤魔化している。浮遊霊にそんな興味を持ってしまうから憑かれるのも一理あるのだが、憑かれれば祓えば良いだけの話だ。  窓の外にはグラウンドが広がっている。クラス教室が並ぶこの南棟の真下にはグラウンドへと繋がる芝生の庭があり、配置されたベンチには時々明らかに学校関係者ではない人が腰掛けていたりする。  先日は着物姿の老婆がここから近くに見えるベンチに腰掛けていたが、いつの間にか消えてしまっていた。今日はどうだろう。 中間テストに出るぞと言う数学教諭の脅しも遠くで聞こえる中、窓の外のベンチへと視線を向けた。 「────……」  日差しに照らされた緑の絨毯の上に一点、黒々とした衣服に身を纏う男が南棟を見上げて立っている。その男の姿を捉えてすぐに視線を手元のノートへと戻す。平静を装いながらも、心臓は若干強く鼓動していた。  あれは今朝にも見た黒いスーツの男だ。学校近くの土手で眠っていた筈だが、起きている姿は初めて見た。いやしかし、何故また学校の敷地内にいるのだろう。おまけに南棟を見上げる男はまるで何かを探すように目線を上下左右に動かしていた。  当然、校舎を含めた敷地内は行事でもない限り学校関係者以外立ち入り禁止だ。 それとも、あの正装は学校関係者──いや、学校関係者が学校近くの土手でワンカップをお供に寝ている筈がない。とすると不審者か、或いはやはり浮かばれずにさまよう霊か。  今日はいつもと違う。霊を見かける度に違和感は感じるのだが、いつもとは別の違和感だ。それは男の身形のせいだろう。土手でも見たが男が身に纏うスーツは喪服のように漆黒一色で、首元でしっかりと締められたネクタイも同色で葬儀屋の装いにも思える。  しかし所作がその職とは程遠いのだ。ズボンのポケットに両手を突っ込み、南棟に向けられていた視線は怪訝そうに眉を寄せまるで睨みを利かせているようだ。土手での寝相も大の字で決して良くはない。  一言で言えばガラが悪い。そのせいで彼の装いは甚だ疑問でしかないのだ。通夜か告別式の帰宅途中に何らかの不幸でこの世を彷徨う羽目になったというのなら話は別だが。  眠気覚ましにもう一度だけ窓の外の庭に視線を落としてみたが、そこにはもう男の姿は無かった。辺りに視線を巡らせてみるが、やはりいない。  生身の人間だとしても浮遊霊にしても奇妙なものを見てしまったが、目が合わずに済んだだけでも幸いだ。  ここで丁度五限目終了のチャイムが鳴り、奇妙ながらも良い暇つぶしにはなったのだろう。シャーペンを握っていた手には微かに汗が滲んでいた。  下校前のホームルームを終えると、クラスメート達が教室を後にして各々の放課後を迎えた。千縁はいつも通り花実と共に下校しようと彼女の席に向かう。 「ごめん千縁。私今日委員会の当番だったの忘れてた〜」  花実は明るくて穏やかな性格だが色々忘れっぽい所がある。今日は図書委員会で回している放課後の当番の日だったようで、一緒に下校出来ないのは残念だが思い出してくれて何よりだ。 「じゃあ帰るの遅くなるんだね。気を付けて帰るんだよ」 「ありがとう。千縁も気を付けて帰ってね」 「うん。また明日」  図書室へと足早に向かう花実を見送り自分も教室を後にした。  放課後の学校は昔から苦手だ。日中に役目を果たした校舎から生徒の姿は消え、がらんどうな空間が今度は招かれざる客を待ち始める。  人が多い場所にはよく集まると言うが、人の残像や思い出が彼らの未練や想いを刺激して誘うのだろう。元々この学校に居座っている地縛霊に加えて、外部から迷い込む霊の姿も夜が近付くに連れて目立ってくる。見える人間からすればお化け屋敷同然だ。花実に霊感は無いが、怖い目に遭わなければいいのだが……と、多少心配になる。  まだ生徒の姿がある昇降口で外履きに履き替え、正門まで伸びる桜並木を歩いていると後ろから自転車通学の男子生徒が追い越していった。 (この時期に自転車で帰るのは気持ちいいだろうなぁ)  目で追いかける自転車は前方に聳える正門を潜り抜けていく。そして千縁は足を止めた。正門の柱に背を預ける黒スーツの男が腕組みをしながら立っている。無表情で冷ややかな眼差しに、合ってしまった視線を逸らすのは遅かったに違いない。 (しまった……)  後悔しても仕方がない。平静を装って通り過ぎるしか無いが、まさかまだこの辺りを彷徨いているとは思わなんだ。自分より先を行く生徒達は男の姿など気にも留めず男の前を通り過ぎていく。やはり生身の人間では無かったようだ。  男との距離が徐々に縮まっていく。この時心臓の鼓動は速度を増し、男の前を通り過ぎる際には何の意味も無いであろう呼吸まで止めて歩いた。
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