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正門を抜けてから振り返りたい衝動を何とか抑え、足早に学校から離れようと家路へと急ぐ。川にかかる橋を渡り、男が寝ていた土手までやって来た。勿論土手には男の姿は無く、ワンカップの容器も見当たらなかった。
試しにワザとらしくよそ見をするようにチラリと背後を振り返ってみる。
「……!」
橋の袂でポケットに手を入れたまま同じ方向を進んでいるではないか。霊に付き纏われるのには慣れているが、何かやはり違和感を感じるのだ。相手はまるで警戒しているかのように距離を置いてついて来ている。気の弱そうな霊ならばこちらの様子を伺いながら付き纏うものだが、あの男はむしろ気が強そうなのだから不思議でならない。
変な霊に目を付けられた気がした千縁はこのまま家に帰って良いものかと悩んだ。憑かれた時は決まって祓ってから帰宅しているわけで、霊を家に持ち帰るなど言語道断だ。
いっそ背後から襲われでもすれば祓いようもあるのだが、わざわざ自分から祓いに行った事はこれまでに一度もない。厄介な霊だった場合、自分から喧嘩を吹っかければどうなるかなど全く持って見当がつかないからだ。
あれこれ考えている間に自宅がある住宅街の手前まで来てしまった。思い悩んだ千縁は川上から歩いた土手道を人気の少ない川下へと歩いた。
もう一度振り返ってみると、やはり男は後をつけて来ている。川下の先には鉄道が走る架橋があり、土手の傾斜を降りて西陽の影となっている架橋の下までやって来た。
水辺はあまり好ましく無いが他に良い場所は思いつかない。ここで一か八かの勝負に出ることにした。背後に男の気配を感じ、ゆっくりと振り返る。
「────……え……」
思わず後ずさった。男は三メートル程の距離を開けた先で拳銃のような物をこちらに向けていた。
「動くな」
男が眉を顰めて凄みのある声でそう言うものだから、霊とは別の恐怖が千縁に襲いかかる。
「あんた、俺の事見えるだろ。だったら言う通りにしておいた方が身の為だ」
さっき目が合った時に気付かれたのだろう。しかしこれまで見てきた霊とは明らかに行動が異なり、霊に銃で脅されるとは想像を遥かに超えるあまり言われなくとも一歩も動けずにいる。
千縁は何とか震える呼吸を整え、銃口を向ける男に尋ねた。
「あの、私に何の用ですか?」
呼吸が震えてしまうせいで声まで震えている始末だ。そんな怖がる千縁をよそに男は答えた。
「あんたにと言うよりは、あんたが背負ってる奴に用があってな」
男の言葉を耳にした次の瞬間、両肩に突然ズシリと何かがのしかかる重みを感じた。視界の隅で黒い影が蠢いている。何が乗っているのかさすがに確かめたくなり恐る恐る後ろを振り返る。
「──ッ!??」
それを見た途端全身に鳥肌が立った。今まで見た事が無い異形な姿をしているそれは自分の背丈よりもふた回りほど大きく、ドクドクと全身で脈打ちまるで生きているかのようだ。例えるなら青虫のようだが、全体的に黒い胴体からは無数の人の手が伸び、腕や脚をしっかりと掴んでいてその感触ものしかかられている重みと同様にハッキリと分かる。
「見えるだろ。俺の領域にあんたが足を踏み入れた事によって、あんたにもそいつが見えるようになったってわけだ」
男はそれが見える理由を丁寧に説明しているが今はそんな事などどうでもいい。一刻も早くそれを体から引き剥がして逃げ出したい所を千縁は男に涙声で訴える。
「わ、分かりました……分かりましたからっ……早くッ……!」
黒い物体は心なしか体重をかけてきている、というよりも覆い被さっているようで膝が今にも折れそうだ。
切羽詰まった状況を察した男は人差し指をトリガーに添え、一瞬の間に照準を合わせるとグッと手前に引いた。けたたましい一発の銃声が辺りに響き渡ると同時に、無数の人の断末魔が頭の中で木霊した。
体にのしかかっていた黒い物体は重みと共にスーッと消え、ようやく解放されたと理解するや地べたに崩れ落ちた。
呆然と一点を見つめながら久し振りに恐怖というものを味わった。あんな得体の知れないモノを見たのは初めてだ。それにいつからあんな物体を背負っていたのか全く覚えが無い。
「あんた、軽く祓えるだろ」
拳銃をジャケットの内ポケットに収めながら聞いてくる男に千縁は抜け殻状態のまま頷いた。
「あれはあんたが祓ってきた霊魂を喰ってあんたに寄生しながら成長した魂塊蟲だ。あの大きさの倍にでも成長してたら、最後には寄生元のあんたが喰われる番だった」
「……喰われるって……?」
「無論、魂奪られて死ぬって意味だよ」
人が死ぬ土壇場だったと言うのに、即答する男はまるで他人事のように欠伸を付け加えた。
今まで自分は他人には見えないモノが見える体質だと思っていたが、それでも見切れていなかったモノの存在を今日知ってしまった。
いやしかし、先程の化け物はこの男が銃で仕留めた筈だ。一先ず安堵するべきではないかと気持ちを落ち着かせていると、男は千縁に背を向けて歩き始めた。
「今夜は風呂でよく体洗っとけ。俺の臭いが体に染み付いてるだろうからな」
男は言い残すやら土手を上がって姿を消した。
(臭い?)
自分の体の臭いを嗅いでみるがイマイチ分からず、ハッと思い出したように立ち上がり土手道を駆け上がる。
しかし男の姿は既に何処にも見当たらない。
西陽に照らされた住宅街に東の空から闇が迫りつつあるだけだ。
結局男が何者なのかは分からず、さっきの出来事は夢だったのかと思う程に意識がまだフワフワと定まらないでいる。
念のため男の言う通り風呂で体はよく洗っておこう。妙な夢見心地に後ろ髪を引かれる思いで、心得ながらも家路へと急いだ。
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