第2話「惹起」

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 あれは間違いなく怒ったに違いない。無言で無表情だったが、眼差しが氷点下にまで冷え切っていた。思った事をそのまま口に出してしまったものの、坂城の苦労など全く知らない自分に気付いたが時すでに遅しだ。  結局、朝起きてみるとクローゼットの中は空っぽの布団のままで坂城が戻った気配は無かった。もしかするとこのまま戻って来ないかも知れない。そんな可能性も否めない今、改めて後悔というものを思い知る。そこへ部屋の扉がノックされた。 「姉貴ー」  宵壱だ。扉を開けると既に制服の学ランに着替え何かを物申したいような面持ちで立っている。 「な、何?」 「俺のゲーム勝手に進めたりした?」 「え、してないしてない」 「……だよな。やっぱセーブしたこと忘れただけか」  ゲームが起動されていた事は昨夜に気付いたようだが、幸いにも気のせいだと理解してくれた。しかし聞いてきたのはゲームに関してだけだ。部屋に戻ろうとする宵壱を呼び止めた。 「宵壱、昨日学校から帰って来て他に変わった事無かった?」 「変わった事?……別に」 (あれ……?)  全開にした窓については触れず、部屋へと戻っていった。妙に引っかかりながらも制服に着替え、階下のダイニングへと降りた。清香が朝食を用意している。 「おはようお母さん」 「おはよう。お母さん朝から宵壱に怒られちゃった」 「え、何で?」 「昨日、あの子の部屋に掃除機かけに入った時に窓を開けて換気したのよ。それを出る時に閉めるの忘れちゃったみたいで。勝手に入るなって睨まれちゃった」  苦笑しながら味噌汁をテーブルに差し出す清香。千縁はそういう事かと合点がいって清香に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。 窓を開けた事の発端である張本人は行方を眩ませてしまったし、今日これからあの悍ましい怨霊を見ると思うと朝から嫌な気分だ。  いつもなら出された量を食べ切れずに残してしまっていたが、ほんの罪滅ぼしに朝食を全部たいらげて家を出た。  住宅街から土手に上がる階段の傍で先に待っていた花実と合流した。 「おはよう千縁」 「おはよう」 「昨日はよく眠れた?」 「あはは。おかげさまで」  実際のところはあまりよく眠れなかった。 夢に(うな)される事は無かったが、坂城が近くにいない状況で魂塊蟲が現れたらと不安だらけの夜で浅く眠っては目を覚ますの繰り返しだった。  土手を上がって学校へ向かう道中、花実と他愛もない会話をしながら視線は坂城の姿を探していたが、見かける事なく正門付近まで来てしまった。 「ねぇ千縁、あれ」  花実が何かに気付いて前方をこっそり指差した。前方には俯向き加減で歩く葉月と、相変わらず彼女の背後にはピッタリと女学生の怨霊が貼り付いている。 後ろ姿ではあるものの早速見てしまった。 「昨日もそうだけど、やっぱり小暮さん元気無い感じだよね」 「そうだね……」  この際、坂城無しであれをどうするか考えるしかない。  教室に到着してからも何度か葉月を確認してみるが、顔色は昨日と変わらずクラスメートとの会話にも控えめな相槌で返すばかりだ。花実に確認してもらうと、葉月の友人である宮内明里は今日も学校を欠席しているようだ。  朝のホームルーム、一限目、二限目と時間ばかりが過ぎていく。葉月に接触して試しに左手で祓ってみようかとも考えたが、後の事が全く予想出来ないため行動に移す勇気がない。祓うにしても教室では危険だ。悩みに悩んだが時間はとうとう昼を過ぎて五限目を迎えてしまった。  古文の授業中だが、今朝からまともな現代語さえ耳に入らずノートを取る手も止まっている。徐に窓の外に目をやる。南棟の傍の庭に今日は誰の姿も無かった。 (私、やっぱり馬鹿だな……)  坂城本人は覚えていないというが、仮にも彼の正体は若くして自ら命を絶った自殺者だ。自殺を選択するまでの心境に追い込まれた事がない千縁には、その苦しみはとても計り知れない。そんな相手に掛けてやる言葉では無かったと反省していると、思いがけない瞬間が訪れた。 「先生」  葉月が突然挙手をして授業を中断させた。古文の男性教師が葉月に尋ねる。 「小暮さん?どうかしましたか?」 「気分が悪いので、保健室で休んでも良いですか?」 「確かに顔色が悪いですね。保健委員に付き添わせましょうか?」 「大丈夫です。一人で行けますので」  そう言って席を立ち、怨霊を背負ったまま教室から出て行った。これはチャンスだ。仮病など使った事は無く芝居にも自信は無いが、これを逃したらいずれ葉月の精神状態にも関わってくる。相手は魂塊蟲ではなくただの怨霊だ。最悪祓ってこちらに取り憑いた場合は専門家のお祓いにでも行けば良い。 「せ、先生……」  遠慮がちに手を挙げる千縁に、教師とクラスメート達が目を向ける。 「織幡さん?」 「す、すみません、私も気分が悪いので……その、保健室で休んで来ても良いですか?」  あくまでも気分が悪そうに、眉間にシワを寄せて訴える。 「辛そうですね。分かりました。一人でも大丈夫ですか?」 「はい。どうにか」 「五限の間に体調が戻らないようであれば、早退して病院に行って下さいね」 「はい……」  熱のこもった演技は教師が早退を促す程に成功した。後ろめたさで俯向き加減に冷や汗を額に滲ませながら千縁は教室から廊下に出た。
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