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再会
突っ立ったまま頭の中で過去を振り返っていた俺に、中田は空気を読んで突っ込んではこず、内美さんは静かにコーヒーを飲んでいた。
「じゃあ榊君、今日の撮影の準備だ」
コーヒーを飲み干した内美さんは、にっこりと笑い掛けて俺の肩をぽんと叩いた。
「当日が楽しみだろうけど、それまでの仕事にも熱心にね。君には自分の写真を撮っていける写真家になってもらいたいから」
「はい、もちろんです」
俺は雑念を振り払い、中田と共に機材の入っているロッカーを開けて、今日の撮影のための準備を始めた。機材を積んだ後スタジオに向かう車の中から、駅前の大広告が目に入る。何故か背筋が伸び、やる気が溢れて「頑張るぞ」と思えた。
「姫野さんいらっしゃいました!」
内美さんとスタジオでソフトライトボックスの位置を決めたり、カメラの点検など撮影機材の調整をしているところへ、慌ててスタジオに駆け込んできた中田は、いつもより大きな声で言った。
「榊君、緊張してる?」
傍にいた内美さんに聞こえるくらい喉を鳴らしていた俺は、出入り口に釘付けになったままで、「すみません」と一言言うのが限界だった。
多分、俺の世界は一瞬止まった。五年前ステージ上で見た凛とした彼の姿が、そのまま舞台を降りてここに居るようで、撮影用の毛皮のコートを着た彼は、独特の雰囲気を纏っていた。姫野はスタッフに挨拶し、自然と俺の方に目線を向けた。俺は堪らず目線を逸らして、もう十分磨いたカメラのレンズを弄り始める。
怖かった。俺の事を覚えていないかもしれない、覚えていても嫌な思い出になっているかもしれない。そう思うと、話し掛けることも目を合わせることもできなかった。
「本日お世話になります、姫野です。よろしくお願いします」
内美さんが挨拶されて握手を交わしている。横でずっとカメラを磨いている俺は、普通に考えればかなり態度の悪いスタッフである。
「榊……君……?」
名前を、呼ばれた。覚えていた。それだけで、全身の毛が逆立ち、身体が震えた。俺はゆっくり一つ深呼吸をして立ち上がり、弱気な俺の尻を心の中で叩いて、真っ直ぐに彼の顔を見た。
その時彼はかつて修学旅行の夜に見せたひまわりの花が咲いたような、明朗な笑顔を向けていた。胸の奥がじわりと暖かくなる。
「申し訳ないけれど、まずは仕事だ。スタジオ使用時間には限りがあるから、積もる話は撮影後にね」
「は、はい! すみません」
顔がにやけていたのに気付いて、俺は慌てて内美さんに頭を下げる。姫野も一礼して雑誌社の人の誘導で、撮影セットの真ん中に立つ。
上半身裸に茶のミンクのコート、下はペンキが飛んだようなプリントの付いた白のパンツの姿である。なかなか奇抜でセクシーな格好だが、毎回この雑誌はこういった目を引くファッションを表紙に据えているので、ある程度予想はしていた。しかし、姫野がやるのは何となく落ち着かない。
「それでは、まず姫野さんの自由な発想でポージングしてもらって、軽く撮ってみましょうか」
俺は内美さんにカメラを手渡し、姫野に当たる照明の角度や強さを確認する。機材は想像通りの位置で、手を入れなくてもいいほど上手くセットされていた。
姫野は「はい」と返事をすると、何となくぎこちなくポーズをとる。内美さん正面から彼の姿を何枚か撮るのだが、困った顔で頬を掻く。
「姫野さん、ちょっと榊君と話したいですか?」
集中できていないことに気付いたのだろう。姫野は「すみません……」と小さくなって肩を落とす。内美さんは俺の肩を叩くとにっこりと微笑んで頷いた。
気付いた時には姫野の手を掴んで撮影セットの裏に引っ張っていた。驚く周囲にも構わず。
「榊君……あの――」
彼の言葉を遮るように、思いつめた顔の姫野の頬を摘まんだ。
「今は仕事! 集中! 話なら時間ある時にゆっくり話しようぜ」
ぽん、と姫野の頭に手を置く。随分前に触れた髪と同じ感触が、手の平から伝わる。内側から湧き上がる感情を押し戻して笑む。
「大丈夫、お前は昔と変わらずかっこよくて綺麗だよ」
応えるように小さく頷く。彼から名残惜しく手を離し、
「後で」
と、ポケットの中から取り出した名刺を一枚手渡し、メイクさんのところに走っていく。顔を触ってしまったので崩れてしまったからだ。
姫野は俺からもらった名刺をマネージャーらしき人に預けていた鞄にしまって、メイクをし直していた。
「……先輩、何したんです? メイク崩れるって……」
恐る恐る聞いてくる中田の顔が面白くて、俺は笑いながら「俺達のおまじない」と答えた。
それからの撮影は上手くいった。姫野から硬さが抜け、プロの表情と雰囲気に戻る。出来上がった写真は、端正で女のような顔なのに、内側から溢れ出る雄々しさが、毛皮のコートとそこから覗く白い肌、奇抜なパンツと調和して、野性的で独創的な世界観を作り出していた。
撮影が終わり、機材を片付けていると、携帯が鳴った。液晶画面には見知らぬアドレスからメールが届いていた。
『三時にオフになるけど、どうする?』
「三時なら機材運び終わるし、大丈夫じゃないかなあ」
突然すぐ傍から声がして驚いて見ると、内美さんと中田が携帯を覗き込んでいた。
「このチャンス逃したらダメですよ、先輩!」
いつの間にこの二人はタッグを組んだのだろうか。姫野の話をしたわけでもないし、協力的になる理由もよく分からない。が、この状況で早退させてもらえると助かるのは確かだ。
携帯に視線を移し、先のメールに返信する。
『三時半に○○駅前の喫茶店に来てくれ』
送信ボタンを押しながら、ちらと二人の顔を見ると満面の笑みで俺の顔を見ていた。些か照れる。
顔が赤くなっていることに気付かれまいと、機材を持ってスタジオから出た。ふと時計を見ると一時半を過ぎた辺りだった。
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