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プロローグ
あ、と声が出るかと思った。
遅刻するかしないかの瀬戸際で、何とかぎりぎり間に合う電車に乗り込んで、職場の最寄駅に着いたと同時に開いたドアから飛び出し、西口改札を通勤定期をかざしてタッチ一つで出た。目の前の交通量の多い大通りの信号は青だった。目的地の職場は駅から徒歩七分で、仕事の始まる八時まであと十二分もあった。普通に考えれば絶対に間に合うコースで、走れば七、八分くらい御釣りがくる計算だ。
しかし、大通り正面の商業ビルの新しくなった大広告が目に映った瞬間、通りを歩く人達の足音や話し声、渋滞が起こっている交差点の喚くようなクラクション、横断歩道が青で今まさに遅刻しそうになっているという事実、総てが一切遮断されてしまった。そしてそのままその場に呪縛されてしまったのだ。
ファッションブランドの広告だと思うが、定かではない。服装に気を配ったことさえない無頓着な人間が、そんな広告に目を止めたのは、そこに写っていた人物のせいだった。均整のとれた顔立ち、凛とした表情のその人は、赤い花のアクセントの付いたつば広の帽子、シンプルなデザインの赤いワンピースを身にまとっている。が、しばらく見ていると骨格は確かに男のものであると誰もが気付くだろう。俺はしばらく見なくてもそのモデルが男だと分かった。いや、彼が何者かということも。
「せ、先輩! 何棒立ちしてるんですか!」
唐突に背後から腕を掴まれ現実世界に呼び戻される。はっとして腕を引っ張っている女、職場の後輩の中田の焦った表情を見て思い出す。今にも遅刻しそうだったことを。慌てて走り出そうとした瞬間、目の前の信号が赤に変わった。
「あーあ……もう遅刻かなあ」
中田が掴んでいた腕から力なく手を離すと、しょぼくれた表情で肩を落とす。目の前の三車線道路を次々と車が通過していく。
「……走ればぎり間に合うだろ」
一、二分前に着いても、遅刻と同じくらい師匠は落胆し溜息をつくことを知っているので、この台詞は慰み程度にもならない。
「でも、あの広告良く撮れてますよね。背景の黒、人物の肌の白さと、真っ赤なワンピース。コントラストがはっきり出ていて、見惚れるのも分かるなあ」
見られていたか、と思うと同時に、ちゃんと写真家の卵目線で物を見ている中田に、「写ってる人物が気になっただけ」とは言えずに押し黙っていると、勘のいい彼女はにやっと笑うとこちらの顔を覗き込んでくる。
「残念ながらあのモデルさん男ですよ? 男性誌女性誌問わずファッション誌に引っ張りだこなんですって。最近オリジナルブランドつくったりしたって」
「そんなの分かってる」
あいつが誰かなんてお前なんかよりも知ってるぜ、と言いたかったけれど、俺はあいつがモデルをやっていることも、何も知らなかった。
「……先輩ゲイなんですか」
言われたことが無かったし考えたことが無かったので、少し考え込んでから「さあ、分からん」とぼそりと呟く。
「そ、そこは即座に否定してくださいよ! なんかもやもやするじゃないですか!」
「いや、まあ……初恋が男だったから、もしやっていう気もするんだよな。付き合ったのは女だけだけど」
複雑な表情のまま突っ込んでいいのか分からなくなった中田が黙る。と、信号が青に変わり、それを合図に猛ダッシュで二人同時に駆け出した。
職場である写真事務所に到着し、ドアを開ける。出入り口付近にあるコーヒーメーカーを使用していた黒髪に白髪が混じり始めた初老の紳士と目が合う。と、同時に溜息。時計は八時五十八分を指している。俺の師匠でプロ写真家の内美(ないみ)さんだった。
「二人とも遅いねえ、電車が遅れていたのかい」
「内美さん聞いてくださいよ! 榊(さかき)先輩が西口の大広告に一目惚れしちゃって動かなくって!」
後ろに隠れていた中田は待ってましたと言わんばかりに内美さんに詰め寄る。
「ああ、あれね。僕の同級生の石田が撮ったんだよ。確かに良く撮れているよねえ」
内美さんはそう言うと微笑みながらコーヒーを啜る。優しいので怒ったりはしないが、その分失望されるのはとても辛い。内美さんの個展が開かれた時に一目惚れして突然弟子入りを懇願して事務所に押しかけた俺を困った顔をしながらもアシスタントにしてくれた素晴らしい人だからだ。
だから、中田の意に反して、内美さんが写真の話で機嫌を直してくれたようで安堵した。
「そうじゃなくて、先輩はあの広告のモデルに一目惚れしたんです!」
「え? そうなのかい?」
目を丸くしながら俺の方を見詰める彼の表情に、俺は返す言葉を失った。すると、内美さんは大量の書類や写真や雑誌が雑多に置かれた自分の机から一枚の紙を取り出すと、それを俺に手渡した。横から中田が覗き込んでくる。仕事の発注書だった。
「よく依頼をくれるαってファッション誌あるでしょう。実は今朝表紙の写真依頼が来て、そのモデルが彼だそうなんだ。表紙飾るのは初めてだから、先生の腕で綺麗に撮ってやってくださいねってプレッシャー掛けられちゃったよ」
困った表情ではははと笑う内美さんの顔を見ながら固まる。状況を理解した俺の心臓は、先程全力疾走したことによるものとは関係なく高鳴っていた。
「彼は、俺の……同級生なんです」
二人は同時に「えっ」と声を上げた。
「高校時代の、クラスは違うんですが……親しくしていました」
「友人だった」と言おうとしたが、なんだがその言葉はしっくりこなかったし、自分の心に嘘をついているようで嫌だったから、「親しくしていた」と言い換える。
「あの……勘違いだったらすみませんが、先輩の初恋の人って……」
目を閉じると今でも時々思い出す。華奢で女みたいで、だが真っ直ぐ芯の通った強さを持った彼の事を。
――そう、あれは確かに、初恋だった。
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