1 赤い三日月

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1 赤い三日月

 目の前に、ただ荒野が広がっている。  先を行く弟は前をじっと見据えており、私を振り返る気配はない。しかしそのゆっくりとした足取りから、私への配慮が感じられる。私のペースにあわせた、ゆっくりとした歩み。私のせいで全てを失っているにもかかわらず、私を思いやる歩み。こんな姉など見捨ててしまったほうが、生きやすいだろうに。  空を見上げると、赤い三日月があった。不気味な赤、血の色―。いつからこんなに月はおぞましくなったのだろうか。夜空に映える静かな月の美しさが、この世界からなくなってどのくらい経つだろうか―。そしてその年数は、私と弟が人としての権利を失った年数に等しい。 「姉さん、きついかい?」  前を歩く弟が私を振り向いて私に訊ねる。私は黙って首を横に振る。 「そう、もうすぐ街に着く。街の中には教会もある。そこならきっと休めるはずさ。」 「私を受け入れてくれるのかしら。」 「教会なんだ、病める者を受け入れるのは当たり前だよ。」 「普通の病ならそうだと思うわ。でも、今までのことを考えると・・・。」  気休めすら思いつかなかったのだろう、弟は無言になる。しかし、方角は変えないところを見ると、目的地はこのままなのだろう。普段から私を気にかけてくれる弟に対し、意地悪な物言いをしてしまった。 「姉さん、気にしてないから。」  私のそういった心情すら読み取ってしまう、この弟。私は弟に迷惑しかかけていないというのに。 「方角はあっているはずなんだけれど、まだ街はまだ見えないな。」 「こんな荒野なのにね。見晴らしはすごくいい。」 「そうだね、地図のとおりだと、もうすぐのはずなんだ。大きな建物なんてない、小さな街だと聞いている。」 「そう、なら見えてくるのはまだ先かしら。」  それから会話は途絶え、黙々とした歩みが続く。私よりゆうに30センチは高い身長の弟は、筋肉もほどよくついていて、その背中は大きい。この頼りになる背中を見つめるのは、本当ならば姉である私などではなく、将来を誓い合った可愛らしい女性であったはずなのだ。  見上げる三日月の赤さは、まがまがしい。忌まわしい。お前さえ赤くなければ―。白いブーケを照れながら持つ、金髪の美少女の顔を思いだす。弟を幸せにしてくれるはずだった彼女の顔。その美貌が、歪む。私の方を見つめながら―。 「姉さん、気にしていないから。」  弟はもう一度同じ言葉を呟く。本当にこの弟は、私の心のうちを読むのが得意だ。  『レルムディア症候群』―そう呼ばれる病がこの地に蔓延して、三年ほど経つ。その間、どれほどの人間が死んだだろうか。この病は人に幻覚を見せる。幻覚の内容はひとそれぞれだが、共通して言えるのは、その幻覚の中に必ず紅いものが入っている点だろう。  二年前の春、月が紅いと家族に告げた時の、父の、母の顔色は忘れられない。  幻覚を見せるだけの病ではあるが、これは死に至る病である。幻覚を視るようになった患者は徐々に現実世界と乖離してゆき、食事も睡眠もとらずに幻覚の中で生活しはじめる。そして、疲労や栄養不足が原因で死ぬ。幻想の中で、本人は普通に食事をとり、眠りについているはずなのに、である。どうかこれを食べてと泣きすがる母を尻目に誰もいない壁に語り続ける子どもなど、よく見る風景である。  そしてこの病、感染経路が完全に不明である。先天的なものなのか、それとも後天的なものなのかもわからない。よって、発症者は隔離され、発症者を輩出した家は共同体の中でも避けられる。  愚かと思われるかもしれない。しかし、無知な小市民が自身を守るためにはそれ以外の手段がないのだ。  弟―名をレイルという―は、村では一番の好男子で、なおかつ快活な性格から男女問わず人気があった。村長の娘であるカヤとの婚姻が決まり、私の家族だけでなく村中が喜んだ(中には弟に恋い焦がれる他の娘たちの嘆きもあったかもしれないが)。それをぶち壊したのが、私の発症である。悲しむカヤを尻目に村長はすぐさま破談にし、私の家族は村八分にされた。農耕を生業とする村で、周りの協力が得られないというのはすぐさま廃業を意味する。父は町に出稼ぎに行き、母は修道院に入った。  その中で、弟だけは私を見捨てなかった。  この国の彼方に、聖女がいる。その聖女の施す秘跡はあらゆる病を治すという。  月並みな、どこにでもありそうな夢物語である。そもそも聖女とは誰のことなのか。この国の彼方とはどこなのか。  しかし、『レルムディア症候群』の患者たちは必死の思いで聖女を探し続ける。どこにいるのかわからない聖女を。さもなければ、夢の中で死んでしまうのだから。
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