"ひと" に成る夜

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"ひと" に成る夜

 幕屋のなかには熱がこもっていた。  これだけの人数だ。火も焚いている。暑いのもしかたがない。  横目でたしかめて、シャノはふたたび、ややうつむきがちに順番を待った。膝立ちをして、胸元で手を組みあわせた体勢も、辛くなってきている。ふらつきそうになりながらも、足に力を入れ、なんとか立てなおす。  隣にはフェリがいる。仲直りはしていない。曾祖母の枕辺で見たとおりのきらびやかな晴れ着をまとって、華のように座っている。  対するシャノが身につけるのは、葬儀の日の空色の祝い着だ。そのままでは、晴れ着としては地味なので、手元の金で買えるだけの色糸で、いくつか刺繍を足してある。  母の声がフェリを呼ばう。フェリは立ち上がり、前へ出た。  おおかたの予想どおりタキハヤとなった母は、淡々と初仕事をこなしている。初めてとはいえ、長年にわたって曾祖母の補助をしてきたため、まごつくことも、場の空気に飲まれるようなこともない。  火でさっとあぶった針を構えて、フェリの耳たぶをつまむ。姉がふたり、左右で皿をささげもって、耳の下にあてた。  続く押し殺した悲鳴に、居並ぶ娘たちが波打つように身じろいだ。白い耳に血の色が痛々しい。左から垂れた血を受けた皿に、タキハヤが岩絵の具の粉をごく軽くひとつまみ投じる。指で混ぜ、左の首筋に指を滑らせる。  首、腕、晴れ着のあいているところには残らず、赤い文様が描かれていく。魔除けだ。目元や頬にも指が触れる。右半身には右の血を、左半身には左の血を。  タキハヤに礼をして、両耳を布で押さえたフェリがふりむく。その泣き顔にまた、一同に怯えが走った。 「シャノ、こちらへ」 「……はい」  こわくなかったと言えば、嘘になる。フェリが戻ってくるのと入れ替わりに席を立って、シャノは母の前に座した。  頭をさげ、衝撃にそなえて、膝に置いた手をぎゅっと握った。親指を握りこみ、腹や足に力をいれる。そうして、目を伏せた。  するどい痛みで、頭がちぎれそうだった。だが、乱れかけた息を整えると、いくぶん痛みもマシになる。このあとも、みなが経験するのだ。そう思えば、気だって楽になる。  両耳に穴があくと、文様を描かれていく。血はつめたかった。指が冷えている。気づいて、シャノにも余裕ができた。娘たちだけではない。母だって緊張しているのだ。  礼をしてタキハヤの前を辞し、文様をこすらないように席へ帰る。途中で、後列にいるトエトやナキムと目があった。笑ってみせると、こわばった笑みをかえされる。  これが終われば、成年した若者を囲んで、大人たちの無礼講の夜があらたにはじまる。  文様を描いてもらったら、晴れ姿をお披露目するのがならわしだ。宴で、舞を踊り、歌をうたう。小さなころから見よう見まねで踊っていた踊りも、今日からは教えてもらえる。今年はうまく踊れなくても、来年がある。そのまた、次がある。  ひとあしに先にすませてしまったシャノは目を閉じ、まるで居眠りでもしているかのように全員の魔除けが済むのを待った。  タキハヤと巫女役の『家』の娘が去ると、幕屋のなかの緊張は一気にほぐれた。それはシャノも同じだ。痛みと安堵で泣きだす者さえあるなか、ふうっと息をついて、押さえていた耳の布を外してみる。  痛みは残っているが、血はとまったようだ。  感慨深くひたっていると、隣でフェリが口をひらいた。 「あなた、変わりましたのね」 「そう?」 「まるで別人ですもの。──晴れ着、それでじゅうぶんですわね」  シャノは面食らった。むっとしたのか、恥ずかしかったのか、フェリは声をはりあげた。 「何をおどろいていらっしゃるの。よろこびなさいな、ほめているんですから!」 「ほめるんなら、素直にほめなさいよね! あんた、ホントひねくれてんだから」  トエトは顔をしかめて止血の布をはぎ取る。 「よかったね。きれいだってさ、シャノ」 「フェリにほめられても、実はあんまり」  あー、わかる、その気持ち。トエトがうんうんとうなずいて、傍に腰をおろした。 「まあ、あなたがたって、ほんとうに、」  言いさして、フェリは幕屋の入り口のほうに目をあてた。 「クロゥさん、ですわ……」  ぽつりと言ったことばに、シャノも目をむける。閉じた幕のむこうをどうやって見たのかと思ったら、入り口が細くひらいた。外に出ていた娘のひとりがシャノを呼ぶ。  出ていこうとして、呼びとめられた。フェリが晴れ着の裾をつかんでいる。 「お座りになって」  強い語調とまっすぐな視線におされ、傍に座りなおす。フェリは腰をあげると、シャノの髪に手を触れた。  指が、飾りをとりさる。手櫛でととのえて、結いあげなおされる。みごとな手さばきらしい。トエトが感嘆の声をあげた。  どうにも、自分の頭のこと、見えないので困っていると、フェリは前にまわり、全体のようすを確かめた。不満そうに口元に手をあて、思いたったように自分の頭に手をやった。  目立っていた銀の花かんざしを思いきりよく引き抜いて、器用にシャノの髪に挿してくれる。そうしながら、耳元にささやいた。 「クロゥさんのこと、ちゃんとつかまえておおきなさいね。他の女にとられたら、わたくし、承知しませんから」 「そ、そんなんじゃ」 「いいから。ほら、お行きなさい」  背を押しだされて数歩進み、シャノは顔だけでふりかえった。 「ありがとう、フェリ」 「がんばって。……シャノは十人並みなんですから、ひとより、うんと努力しなければ」 「うん、わかった」  そのちくりとした物言いのほうが、ここちよい。晴れやかな表情で、シャノは幕屋の外へと駆けだしていった。  娘たちの多い幕屋の前で、クロゥは肩身がせまそうだった。  所在なさそうな立ち姿がおかしくて笑っていたら、声でこちらに気がついたのだろう、むっとした顔になる。だが、それも一瞬だった。はっきりと目が合うと、クロゥは言おうとしていたことも忘れてしまったようだった。  小首をかしげてみせると、やっと我に返る。 「ちょっと、いいかな」  そう言って、岬のほうに誘いだされた。緊張しているのが、よくわかる歩きかた。ぎくしゃくしている。シャノだって、ひとのことは言えない。こんなに、胸が苦しい。儀式のときよりも、動悸がする。  とうとつにふりかえったクロゥの顔は、遠い広場の炎に照らしだされ、やや赤かった。 「シャノにっ、渡したいものが、あって」  どもりかけた。やっぱり、ちょっとおかしかった。でも、笑うのはひかえる。  手がさしだされる。ひかるモノがみえる。──白珠の耳飾り。両揃いだ。赤ちゃんの前歯よりも可愛らしい涙型の白珠だった。 「これ、わたしに?」  こちらも、うっかり声がふるえてしまった。  照れかくしのように、クロゥは早口になる。 「小さくてごめん。それしか買えなかった。早く働きはじめればよかったんだけど」  瞠目する。じゃあ、これはあの旅籠で。  シャノの内心の疑問に気づいたのだろう。クロゥはこちらにうなずいた。 「親の金使って贈り物するの、すげーかっこわるいって思って」  身につけようとして、じんとした痛みに手間取る。鏡がないと無理だ。あきらめかけると、クロゥがかわりに手にとった。  とおった。痛みに小さく声をあげる。 「わ、ごめっ」 「だいじょうぶ。空けたばっかりだから」  耳飾りをうえからおさえる。顔が勝手に笑ってしまう。にやけてないかしら。恥ずかしいけれど、おさえられない。  もう片方をもてあますクロゥから、耳飾りを受けとる。口元にあて、ふっと息をふきこんでみる。おまじないだ。『わたしの魂がいつも、あなたとともにありますように』。  照れたようすのクロゥに、かがんで、と頼む。つま先立ちになって、まだ高い位置にある耳にふれる。耳飾りをつけると、クロゥもまた、「いてて」と軽い調子でうめいた。 「ふたつともあげるつもりだったんだけど」 「じゃあ、もう片方はわたしが用意する」 「左右、別々のをするんだ?」  笑ったクロゥに悪びれずにうなずきかえす。それもいいかもなあと、クロゥは鷹揚に言って、あ、と声をあげた。 「そうだ。俺もやっとこう」  いきなりシャノの肩に手をおく。かがみこまれて、びっくりする。また、耳に指がふれる。しびれるような痛みをこらえていると、顔が近づいてくる。 「きゃあ」  吐息が耳にあたった。悲鳴におどろいて、クロゥがからだを起こす。 「痛かった?」  聞かれて、目で訴える。見つめあってしまって、状況に思いいたったらしい。クロゥはあせったように目をそらして固まっていたが、やがて腕の位置を換えた。  背にまわりかけたてのひらが、熱い。 「シャノ……」  からだをあずけかけた、まさにそのときだった。クロゥの掠れ声に重なるように、明るい声が耳に響いた。 「シャノ、クロゥ! 何してんだい、こっちにおいでよおっ!」  あわてて飛び離れ、ふたりそろって声のしたほうを見遣る。  声の主は、ナキムだった。広場から大きく手をふっている。悪気のなさそうなようすだったが、フェリとトエトに「この、莫迦!」とこづかれて、三人で、わあわあと口論になりかけている。  一部始終、見られていたのか!  赤面しながらも、三人のようすにシャノはふきだす。むこうに歩みよろうとしたシャノの手を、クロゥが脇から握りしめた。  見あげたクロゥの耳元には、白珠がゆれている。目を見交わして微笑みあって、ふたりは広場へ近づいていった。
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