南の『家』と北の港町

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「なんでこんなところにいるんだよ」 「だから、言ったでしょう。従姉のイシナの嫁ぎ先がこのあたりの旅籠なのよ。今日は、イシナに連れられてきたの」  晴れ着を燃やされてしまった下りは、話せない。成人する娘に代わりの新しい晴れ着を用意してやれないなんて、『家』の恥だ。うかうかと往来で話せることではなかった。  そのせいだろうか、クロゥはかんたんには納得してくれなかった。 「それで? そのイシナは、従妹を道ばたに放り出してどこに行ったんだよ」 「放り出していやしないわ。わたしが旅籠を飛び出してきたの」 「どうして、そんな莫迦なこと」  頭が痛いというそぶりをみせて、クロゥはシャノの手を掴んで歩きだした。 「そういうあなたは、どうしてここに?」 「魚を届けてる店がいくつかあるから、たまに荷運びを手伝ってるんだ」  クロゥの父親は漁師だ。彼自身も手伝っていると、つい昨日聞いたばかりである。そういうことかと合点し、シャノはきょろきょろと周囲に視線をめぐらせた。 「お父様は?」 「おとうさまなんてガラじゃないよ、親父は。酒買いにいくから、先に歩いて帰れってさ」 「ふぅん……」  手を引かれて町を出て、寺院が見えてきてもなお、会話の糸口は見つからなかった。  今日の海は凪いでいる。いつもどおりの暑さに加えて、風がなければ、海辺の道はひどく蒸す。隠れる木陰もない。地面は熱されて、遠く陽炎がゆらめいている。  歩くことに集中していると、クロゥが口を開いた。 「あのさ、──シャノが従姉の旅籠から飛び出してきた理由って、俺が訊いちゃいけないのかな」  仰ぎ見ると、黒い目がシャノを見下ろしていた。話してほしいと、目が訴えている。  クロゥは、昨日までほとんど関わりのなかった人物だ。さして仲がよいとも言えない。信用に足るとは思う。迷いながら、シャノはことばを選んだ。 「葬儀で、母が断りも無しに、わたしの成人儀礼の晴れ着をひいおばあさまに着せてしまったの。落ち込んでいたら、イシナが助けてくれると言って、島の北につれてきたの。でも、イシナったら、気に障ることばかり言うんだもの。頭にきちゃって」 「たとえば?」  例をあげようとしたのに、シャノはクロゥと繋いだ手の感触に気を取られた。まめだらけの手、指の皮もこんなに分厚く硬い。指先でたどると、クロゥは小さく呻いて吐息をもらした。 「シャノ」  たしなめるように呼ばれて顔をあげる。クロゥは目を合わせようとせず、自由なほうの手で眉間を軽く揉んでいる。 「同じようにやってやろうか?」  言うなり、繋いだ手の指でてのひらをなぞられる。 「ひゃあっ」  あまりのくすぐったさに声をあげ、思わず手を振りはらうシャノを見て、クロゥは深いためいきをついた。 「な? 変な感じだろ?」  背筋を撫でられたような違和感に、背中まで払いながら詫びて、シャノは彼の手を指さした。 「手が硬いから、気になったんだもの。メーナもパサーもそんなふうじゃなかったから」  クロゥは引き結んだくちびるを、笑いでもこらえるようにゆがめた。それから、そっぽをむいてしまう。 「お、男の手なんて、みんなこんなもんだぜ? そりゃ、俺は曳き網を触るから、余計かもしれないけどさ」  言いながら、繋いでいたてのひらを開いて閉じて、繰りかえしながら見つめている。 「そういうもの?」 「そうだよ。俺たちくらいになれば、みんな、何かしらの仕事や、家の手伝いをしてるだろ。男なら力仕事が多いから、手はどうしたって硬くなるさ」  みんな、ということばに、シャノの足が止まった。訝しげにするクロゥをよそに、もどかしい気持ちで、シャノは疑問を口にした。 「仕事や手伝いって、なんでするの?」 「なんでって……、暮らしたり、小遣いをもらったりするため、かなあ。俺は、小遣いもらって飴買ったり遊んだりしてるけど、友達には、成人したらすぐに独り立ちするために金貯めてるヤツもいる」 「子どもなのに?」 「子どもだけど、俺んちやシャノの『家』みたいに、家の仕事がある家ばかりじゃないだろ? 大陸に稼ぎに行くヤツだって、嫁さんの家で働くヤツだって、町で働き口を見つけるヤツだっているじゃないか」  同意を求められても、シャノはそんなこと、いま初めて知ったのだ。答えられようがなかった。シャノはうつむいて、こぶしを握った。 「──イシナが言ったの。わたしには、何にもできないって。わたしに遣る仕事なんてないし、わたしを雇ってくれるところなんて、どこにもないんだって」  ほんとうなのだろう。仕事も、家の手伝いもしていないシャノは、他の同じ年齢の子どもとは違う。家の仕事だって、きっと五番目の娘にまでは回ってこない。シャノはただ、どこか決められた家へ嫁いで、『家』を出るだけだ。 「働きたいの?」  問われて、かぶりを振る。 「わからない。でも、新しい晴れ着が欲しいの。冬の儀礼に間に合うように誂えるには、あとひとつきしか猶予がないわ」  クロゥはじっとシャノの話に耳を傾け、もう一度、手を差しだした。 「戻ろう」 「え……」  ためらうシャノの腕を取り、クロゥは踵を返す。 「イシナの旅籠へ行こう。ケンカ別れしたんだろ? 謝るなら、早いほうがいい」 「でも! 危ないから北の町には近づいちゃいけないって、パサーが言ってたのにっ」 「そんなのたいした問題じゃないだろ。俺が送り迎えでも何でもしてやるよ」 「だけど!」  引きずられるように歩きながら声を張ったシャノを、クロゥは苛立ったように顧みた。 「パサーがだれだか知らないけど! そいつの言いつけを破って、従姉にほいほいついていっちまうくらい、晴れ着が欲しいんだろ! それなら働くしかないじゃないか。従姉の言うとおりだ。シャノはきっと他では雇ってもらえないし、雇われたところで、旅籠と同じ給金はもらえない! いまを逃したら、成人儀礼で新しい晴れ着は着られないんだぞ」  目が覚める。クロゥのことばは、一気にシャノの頭を冷やしていった。 「──ありがとう。わたし、行かなきゃ」 「だろ? そう来なくちゃ」  クロゥは笑って、手を引いてくれる。その手のぬくもりに励まされ、シャノは高台の旅籠を目指して、ようやく自分の意思で走りはじめた。
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