南の『家』と北の港町

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 旅籠の制服は、島の伝統的な衣装に似ていた。晴れ着とは違う。島の女の普段着だが、いまではもう、老齢の女しか身にまとわない代物だ。若い世代は、もっと簡易なものをまとっている。  手に取って、シャノは目をすがめた。曾祖母を思い出したのだ。  黒地に黄色の文様が細かく散った巻きスカートは、ひどく長い。上のほうを折ってたくしあげてあるが、それでもひきずりそうだ。たくし上げた腰元に被せて、深い藍染めの布を巻く。これが、とても長い。胸元も覆い隠すように巻きあげて、脇の下あたりで銀のピンをさした。共布で縫われた上着のあわせは、胸元の布がほんの少し覗くくらいにゆるめにする。胸の下あたりで、柔らかくて薄い幅広帯を何重にも巻いて、押さえをする。帯は、濃い紫をしている。  まるで、宵闇に沈みゆく海のような色だと、シャノは思った。波打ち際や、光のない遠い沖合は黒く、落ちた太陽に近いあたりは藍に染まる。水平線は一本とおった紫色だ。  思い浮かべながら、てのひらで服のしわをなおす。清潔な木綿のてざわりに、気持ちがしゃんとした。  シャノはさっそく仕事場として割り振られた厨房へむかう。  試用期間を乗り切れるかどうかが肝だった。イシナの夫はあんなに物腰柔らかに見えたのに、クロゥとともに戻ってきたシャノには、たいそう冷ややかだったのだ。 『何が起きたかは聞いているよ。君を助けたのは、ウチの従業員たちだからね』  考えなしに行動したうえ、そのつけを他人に支払わせたことが気に入らないようだった。自分の身を自分で守れもしない娘を預かる。下手を打てば、妻の婚家の本家筋にあたる『家』と敵対するのだ。娘の能力に見合わない高い給金だって払う約束である。彼に利など、ひとつとてない。  このことも、帰り道にクロゥに通訳されて、やっと理解した。  ──北の港町(あのあたり)では、『家』のことは、なるべく話さないほうがいい。港では、海神はあんまり人気が無いんだ。  帰りがけに聞いたクロゥの声が、耳に蘇る。なぜ、人気が無いのだろう。思い返してみながら、はた、と立ち止まる。 「あれ、迷った……?」  わざわざ口にするまでもない。迷っている。  表からみるよりもずっと、旅籠の構造は複雑で入り組んでいた。たくさんの棟があるが、それぞれが渡り廊下でつながっているし、中二階やら地下やらあって、シャノにはどこがどこだかよくわからなくなってきていた。  どうにか下に降りようとしていると、目の前を横切っていく見覚えのある人影があった。 「あ、トエトさん」 「あら、このあいだの! ここにお勤めするの?」 「はい、今日からなんです」  厨房にむかうこと、迷ったことを伝えると、トエトは控えめながら明るく笑った。 「いいこと教えてあげる。そこにね、滝があるの。聞こえるでしょ、水音が」  言われるまで気がつきもしなかった。波の音や葉擦れにまぎれるようなせせらぎだった。それがむこうからやってきて、渡り廊下の真下あたりで流れおちている。  高さにして、どれくらいだろう。家の屋根にのぼるのよりも高いのかもしれない。  飛んでいく白いしぶきにさわれそうだった。池のような滝壺が見えて、シャノはうわぁ、と歓声をあげた。 「すごい、滝のうえなんて、はじめて!」 「これから毎日とおるよ。滝を作ってあるのが南側。北側が港がみえるほう。外の景色と照らし合わせて考えるのよ」 「それならわかりやすいわ!」 「その制服ってことは、仕事は内向きね。がんばりなさいよ!」  そういうトエトの制服は、朝焼けのような色合いだ。役割で服が違うことにいまになって気づいて、シャノはとまどった。  ──内向き?  では、外向きがあるということだろうか。  その疑問は、その日のうちに解消された。  たらいに張った水を換えて、凝った肩やふやけた足先をもみほぐす。のびをしたら、腰もばきばきと鳴って、シャノは苦笑いした。  井戸との行き来をくりかえしたせいだ。重たい水をようよう運びおえて、腕からは力が抜けてしまっている。足も鈍く疲れを訴えている。たらいのなかでの足踏みも、度重なれば、なかなかの作業量だった。  汚れものを洗うのが、シャノのしごとだ。洗濯だけではない。皿洗いも、客がひどく汚した厠や風呂の掃除も、シャノがする。  最初のうちは、吐き気をこらえるのに必死だった。においも見た目も耐えられないと思った。だが、慣れてみればなんということもない。『家』の乳母や使用人たちのしごとはきっと、こういうものだったのだろう。  パサーが自分にしてくれたこと。そう考えれば、だいぶ気が楽になる。それに、清潔になって敷布が風にはためくところや、皿が整頓されて棚に入っているのをみるのは、思っていたよりも快感だった。  頭上の渡り廊下を、客と朝焼け色の制服が通り過ぎていく。いまのは、ナキムの声だ。トエトといっしょに町中で出会った痩せた娘である。  いくらかでも大陸語の話せる娘は、どの店でも重宝される。『外向き』の接客のしごとにつくのは、そうした娘たちだ。この旅籠で外向きのしごとに就ける娘は、トエトとナキムのふたりしかいない。ほかはみんな大人だ。比べて、シャノたち『内向き』は大勢いる。料理人や庭師などの技術を必要とする内向きもいるが、多くの者は違う。水くみや薪割りなどの肉体労働や、シャノの請け負ったような汚れしごとが内向きのしごとだ。できることを、できるひとがやる。徹底した仕組みに初めて触れて、シャノは舌を巻いた。 「あとちょっと……」  つぶやいて、シャノはたらいのなかに足をひたした。裾をつまみあげたままで、足踏みをする。洗濯は好きだ。独特のリズムがある。踊るように敷布を踏みならす。たらいのなかで水が波打って、洗剤が泡立つ。  シャノは知らず、歌をくちずさんでいた。季節ごとの儀式でタキハヤが海神に捧げる歌。何度も聞いたから、おぼえてしまった。  まぶたをふせ、なにかをうけとるように裾をひろげる。足踏みをして、くるりくるぅり、まわりだす。  裏庭の隅には、だれもこない。昼さがりの光のなかで、目をあけて、たらいの水をすこしだけ蹴ってみる。つまさきから飛んだ水しぶきはきれいだった。  もう、いいだろうか。敷布の具合をたしかめる。たらいから出てみて、はじめてシャノは人影に気がついた。
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