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歌がとぎれる。見つめたら、相手は照れくさそうにした。
「……お迎えには早すぎるわ。いつから見てたの? 声をかけてくれればいいのに」
「ききたかったから」
そう言われて、小首をかしげるシャノを見て、クロゥはまぶしそうに目を細めた。
「シャノがうたうの、ひさしぶりにみた」
「お葬式の日にも、うたった」
「じゃあ、行けばよかった」
さらりと言われて、今度はシャノが照れる番だった。顔が熱くなった。顔だけではない。胸から何か変なものでも出ているのではないか。そう思うくらい、じわじわと、手指やつまさきにむかって熱がひろがっていく。
シャノはうつむいて、それから、言うべきことを思いだして、ガバッと顔をあげた。
「今日ね、十日目なのよ。初めてお給金がもらえるの」
下ろすのを忘れていた裾を手放すと、空いた手をすかさずクロゥがとった。
「シャノ、俺──」
言ってから、何を思ったのか、彼はとった手に目を落とした。シャノもいっしょに自分の手をみる。
連日の水仕事で指先が荒れはじめてはいるが、これといって特徴のない手である。
「あの、クロゥ?」
あんまりじろじろ見られると、恥ずかしい。しっかりと手入れしておくんだった。
そんなことを考えているあいだも、手を握りしめていた彼が、何か言った。聞き返したシャノに、クロゥははっきりと告げた。
「決めた。俺も、ここで働かせてもらう」
とうとつな宣言に面食らう。クロゥは思いたったが吉日とばかりに走っていく。取り残されてしまったシャノは、半ば呆れながら、ため息をついた。
ほんの十日前まで、彼は名前も顔もろくに覚えていない同い年のひとりだった。それがどうだろう。いまでは、毎日朝な夕なに顔を合わせている。ひとりで旅籠まで通えると言うシャノの主張に、クロゥは頑として首を縦に振らなかった。
「俺、シャノに何かあったら、嫌だ」
自分を真摯に見つめる瞳の切なさに、シャノは飲まれた。クロゥは親切に申し出てくれただけだろう。それなのに、まともに顔をあわせられなくなった。彼のひとことで一喜一憂するようになってしまった。
「うぅ……」
思いだし恥ずかし。広げて干した敷布の前で動けなくなっていると、渡り廊下から、明るい声が飛んできた。
「ねえ、シャノ! 今日、帰りに糸を見に行かない?」
トエトだ。見上げて、シャノは首を傾げた。
「糸?」
「うん、そろそろ取りかからないと間に合わないじゃない? 今年成人の子、みんな誘ったの! シャノも行くでしょう?」
成人と糸。何の関係が? 晴れ着の刺繍を自分で施すという話なのだろうか。わからないながら、ここで断ってはいけないという気がして、シャノはうなずいた。
「う……ん、そうね、行くわ」
返事を聞いて、トエトは仕事に戻っていく。自分も次の仕事が待つ厨房に足を向けて、シャノは『馬』の図案が自分に刺せるかどうかを真剣に検討しはじめていた。
仕事が終わり、旅籠の前に集まったのは、シャノを含めて娘ばかり五人だった。こんなに多くの同い年の子がいたことを、シャノは働き出して十日経ったいま、初めて知った。
「どこに行くの?」
港にむかって坂を下りはじめた面々に問いかけると、ナキムが肩越しにふりかえりながら、顎に手をあてた。
「そうね、布市場のあたりに糸問屋があるから、そっちのほうがいいと思ってるんだけど、どう?」
「そうだね、店を決めて行くより、糸問屋のほうがいいよね」
娘たちがわいわいと相談をはじめたのを見て、シャノは「糸を何に使うの?」などとは言えなくなった。まして、初対面で名もわからない娘がふたり、残りも名はわかるが親しくない娘といった状況だ。弱っていると、ナキムがこちらに水をむけてくれた。
「シャノは、どんな糸にするの? 綿? 絹?」
「シャノは今日、はじめての給金をもらったばかりでしょ? まだ、糸を買えるほどのお金はないよ。参考に見に行くだけ。そうでしょ?」
トエトがまるで助け船を出すように口を挟んで、目で返答を促す。シャノは一拍遅れて、こくこくとうなずいた。
「そ、そうなのそうなの。私、年の近い友達もいなくて、どうしたらいいのかわからないものだから」
「まあ、そうよね、こんな遅い時期になって働きはじめるくらいだし」
娘たちが納得するように目を見交わすのを見て、シャノは身の置き所がない気分になった。おしゃべりは続いていく。
「私はね、赤い糸を買って、自分で織るつもり」
「あたしは練糸に決めてる。染めと織りに出す工房も、それぞれ目星をつけてあるんだ」
トエトが言うと、みんなが即座に「いいなあ」とうらやましそうな声をあげた。
「トエトはお嬢さんだから、給金を全部使えるんだよねえ。私たちとは違う」
「トエトだって、家には半分入れてるわ。それでも、外向きのぶんだけ給金がいいし、あんたたちよりも長く働いてきたのよ?」
ナキムがやんわりとした口調でたしなめる。それを聞いて、シャノはトエトとナキムに目を向け、首を傾げた。
「外向きと内向きって、どのくらい給金が違うの? 私、今日、見習いのぶんの給金もらってきたんだけどね……」
「シャノ!」
トエトに鋭く叱られたが、時すでに遅し。シャノは娘たちみんなに給金袋の中身を開示してしまっていた。
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