南の『家』と北の港町

6/7
前へ
/21ページ
次へ
 歌がとぎれる。見つめたら、相手は照れくさそうにした。 「……お迎えには早すぎるわ。いつから見てたの? 声をかけてくれればいいのに」 「ききたかったから」  そう言われて、小首をかしげるシャノを見て、クロゥはまぶしそうに目を細めた。 「シャノがうたうの、ひさしぶりにみた」 「お葬式の日にも、うたった」 「じゃあ、行けばよかった」  さらりと言われて、今度はシャノが照れる番だった。顔が熱くなった。顔だけではない。胸から何か変なものでも出ているのではないか。そう思うくらい、じわじわと、手指やつまさきにむかって熱がひろがっていく。  シャノはうつむいて、それから、言うべきことを思いだして、ガバッと顔をあげた。 「今日ね、十日目なのよ。初めてお給金がもらえるの」  下ろすのを忘れていた裾を手放すと、空いた手をすかさずクロゥがとった。 「シャノ、俺──」  言ってから、何を思ったのか、彼はとった手に目を落とした。シャノもいっしょに自分の手をみる。  連日の水仕事で指先が荒れはじめてはいるが、これといって特徴のない手である。 「あの、クロゥ?」  あんまりじろじろ見られると、恥ずかしい。しっかりと手入れしておくんだった。  そんなことを考えているあいだも、手を握りしめていた彼が、何か言った。聞き返したシャノに、クロゥははっきりと告げた。 「決めた。俺も、ここで働かせてもらう」  とうとつな宣言に面食らう。クロゥは思いたったが吉日とばかりに走っていく。取り残されてしまったシャノは、半ば呆れながら、ため息をついた。  ほんの十日前まで、彼は名前も顔もろくに覚えていない同い年のひとりだった。それがどうだろう。いまでは、毎日朝な夕なに顔を合わせている。ひとりで旅籠まで通えると言うシャノの主張に、クロゥは頑として首を縦に振らなかった。 「俺、シャノに何かあったら、嫌だ」  自分を真摯に見つめる瞳の切なさに、シャノは飲まれた。クロゥは親切に申し出てくれただけだろう。それなのに、まともに顔をあわせられなくなった。彼のひとことで一喜一憂するようになってしまった。 「うぅ……」  思いだし恥ずかし。広げて干した敷布の前で動けなくなっていると、渡り廊下から、明るい声が飛んできた。 「ねえ、シャノ! 今日、帰りに糸を見に行かない?」  トエトだ。見上げて、シャノは首を傾げた。 「糸?」 「うん、そろそろ取りかからないと間に合わないじゃない? 今年成人の子、みんな誘ったの! シャノも行くでしょう?」  成人と糸。何の関係が? 晴れ着の刺繍を自分で施すという話なのだろうか。わからないながら、ここで断ってはいけないという気がして、シャノはうなずいた。 「う……ん、そうね、行くわ」  返事を聞いて、トエトは仕事に戻っていく。自分も次の仕事が待つ厨房に足を向けて、シャノは『馬』の図案が自分に刺せるかどうかを真剣に検討しはじめていた。  仕事が終わり、旅籠の前に集まったのは、シャノを含めて娘ばかり五人だった。こんなに多くの同い年の子がいたことを、シャノは働き出して十日経ったいま、初めて知った。 「どこに行くの?」  港にむかって坂を下りはじめた面々に問いかけると、ナキムが肩越しにふりかえりながら、顎に手をあてた。 「そうね、布市場のあたりに糸問屋があるから、そっちのほうがいいと思ってるんだけど、どう?」 「そうだね、店を決めて行くより、糸問屋のほうがいいよね」  娘たちがわいわいと相談をはじめたのを見て、シャノは「糸を何に使うの?」などとは言えなくなった。まして、初対面で名もわからない娘がふたり、残りも名はわかるが親しくない娘といった状況だ。弱っていると、ナキムがこちらに水をむけてくれた。 「シャノは、どんな糸にするの? 綿? 絹?」 「シャノは今日、はじめての給金をもらったばかりでしょ? まだ、糸を買えるほどのお金はないよ。参考に見に行くだけ。そうでしょ?」  トエトがまるで助け船を出すように口を挟んで、目で返答を促す。シャノは一拍遅れて、こくこくとうなずいた。 「そ、そうなのそうなの。私、年の近い友達もいなくて、どうしたらいいのかわからないものだから」 「まあ、そうよね、こんな遅い時期になって働きはじめるくらいだし」  娘たちが納得するように目を見交わすのを見て、シャノは身の置き所がない気分になった。おしゃべりは続いていく。 「私はね、赤い糸を買って、自分で織るつもり」 「あたしは練糸に決めてる。染めと織りに出す工房も、それぞれ目星をつけてあるんだ」  トエトが言うと、みんなが即座に「いいなあ」とうらやましそうな声をあげた。 「トエトはお嬢さんだから、給金を全部使えるんだよねえ。私たちとは違う」 「トエトだって、家には半分入れてるわ。それでも、外向きのぶんだけ給金がいいし、あんたたちよりも長く働いてきたのよ?」  ナキムがやんわりとした口調でたしなめる。それを聞いて、シャノはトエトとナキムに目を向け、首を傾げた。 「外向きと内向きって、どのくらい給金が違うの? 私、今日、見習いのぶんの給金もらってきたんだけどね……」 「シャノ!」  トエトに鋭く叱られたが、時すでに遅し。シャノは娘たちみんなに給金袋の中身を開示してしまっていた。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加