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「──何、この額」
名も知らぬ娘が、訝しげな声を出す。もうひとりが声を震わせる。ナキムが眉をきつく寄せ、トエトは額に手を当て、目を伏せた。
「……悪いけど、今日は遠慮してもらえるかい?」
トエトの絞り出すような声で、シャノはようやく失態に感付いた。数歩後ずさる。
「あんた、たった十日の見習い仕事にこんな大金もらって、おかしいと思わなかったの?」
「外向きの仕事でもないでしょ? 内向きの、それも水仕事するような子が、こんな額もらえるわけない!」
投げつけられたことばがだれのものか、シャノにはわからなかった。
「これで見習いの給金? それじゃ、明日からはこのなかのだれより──トエトよりも高給取りだわね」
ナキムが嘲るように言う。トエトだけは何も言わず、だれより先に坂を下りはじめる。それに続いて、他の三人がシャノを一瞥していく。鋭い視線だった。突き刺さる妬みに、怯えが走った。背中がすうっと冷えた。
「信じられない」
たったひとことだった。最後にひとりに吐き捨てられたことばが、胸をえぐった。
動けなくなった。膝が笑っている。
助けて。誰か、──誰か。
歯の根があわない。頬が熱くなった。耳のなかで脈拍が響く。
がんばって、顔をあげる。何か、弁解を。思った視界の端に、クロゥが見えた。
旅籠を出るところだったのだろう。こちらに気がついたらしい。状況を理解したのか、険しい顔で走ってくる。
怖かった。
シャノはクロゥから逃げるように駆けた。先を行く娘たちの横を、いきおいよく駆け抜ける。
涙が息をつまらせる。むせかえりながら、海辺の道を、シャノはがむしゃらに走った。
汗だくになり、嗚咽とともに『家』の敷地をつっきる。自室の棟に入ろうとして、戸口に立った小柄な影につまづきそうになった。
メーナだった。よろけたシャノの泣き顔をみて、メーナはぽかんと口をあける。
ひっく。肩をゆらして息を吸いこみながら、シャノは妹をなかに招き入れた。てのひらと甲で頬をぬぐう。すとんと敷物のうえに腰をおとすと、メーナは自分から隣に座った。
泣きやまなければ。妹の前でみっともない。くちびるを軽くかみしめる。嗚咽はおさえられたが、涙がとまらない。
流れるしずくをさらに手でぬぐったら、ぺたり、と頬に熱い感触がふれた。
手だ。シャノのてのひらぐらいしかない小さな手が、不器用に涙をふいてくれる。
「いたいの?」
首をふる。痛くないなら、なぜ泣くのか、わからなかったのだろう。首をかしげて、メーナは両手をさしだす。立ちあがり、シャノにからだをよせる。
「いたくない、いたくない」
なぐさめるように首を抱かれる。肉の薄い小さな胸にそうっと抱きしめられて、涙がこぼれる。息がととのっていくのを感じた。
背を抱きかえして、ゆっくりと顔をあげる。泣き笑いになってしまう。メーナが離れる。
シャノは顔を両手で覆うようにして、顎まで垂れたしずくをぐいと横にぬぐった。
「ありがとう。だいじょうぶよ、痛くない」
「ほんとう?」
「ええ、ほんとう」
今度は笑えた。メーナがうれしそうにする。
「あのね、お花、輪っかにするの」
「花をつんだの?」
「うん。今日ね、朝、お兄ちゃんと!」
てっきり、乳母とだと思った。意外なことばに、シャノは目をまるくした。しかし、この『お兄ちゃん』とは、はたして兄のことだろうか。兄はみな成人していて、『家』には残っていないのだが。
こころあたりは、ひとりしかいなかった。
「お兄ちゃんって、もしかして、飴屋さんで会った?」
クロゥが来た? 旅籠に顔を見せる前に、わざわざ『家』まで来て、メーナと遊んでやったというのか。
「そう、お兄ちゃん! でね、あのね……」
立ったまま、もじもじと、からだをねじるようにゆらす。両手をうしろにまわす。はにかんだようにくちびるの端をあげて、メーナは上目遣いにシャノを見た。
「お姉ちゃん、に、輪っか教えてほしい!」
『お姉ちゃん』、その響きにふわりと、顔がほころんでいく。
はじめて、呼ばれた。また涙が出そうで、シャノは腰を浮かせた。妹の両手をとる。
「いいわよ、いくらでも教えてあげる」
クロゥが言ったのだろうか、お姉さんに教わるといいと。高い背をかがめて、花を摘みながら、きっと何度もことばにつまって。
小さな花をいくつも編んだ首飾りや、腕飾りに指環。長いことつくっていないけれども、どれも忘れてはいない。
立ちあがって、手をつないで部屋を出る。外はまだかろうじて明るい。メーナの部屋はどちらだったか。
メーナの乳母に灯りを頼もう。今日くらい夜更かししたって、構わないだろう。
考えながら、手をひく。歩調をあわせていると、隣で「あっ」と小さく叫ぶ声がした。
どうしたのかとみると、シャノを振りあおいで、メーナは口を開いた。
「お兄ちゃんがね、お姉ちゃんに言ってた。『がんばれ』だって」
ことがことだけに、使用人にも他の姉妹にも言伝はできない。だから、メーナに。
朝のクロゥに、いまのシャノの状況が予測できようはずもない。けれども、時間をおいて届いた伝言は、シャノのこころを守るようにそっと寄り添う。
あたたかい。シャノは胸元を押さえ、できる限り優しく微笑んだ。
「ありがとう、メーナ。伝えてくれて」
えへへ、と得意そうにする妹の手を、もう一度しっかりと握りなおす。まぶたを閉じて、息をととのえて、開く。宙をにらむ。
──負けるものか。フェリよりも、あの子たちよりも立派な晴れ着で儀式に出てやるんだから!
「よーしっ、メーナ! 輪っかいっぱいつくろう!」
呼びかけ、駆けだしながら、シャノは明日も、旅籠のしごとにいくことを決めた。
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