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蒼穹の神 海の神
洗濯を終え、制服の裾を整え、厨房に急ぐ。厨房では皿洗いが待っている。そのあとは掃除だ。日を経るごとに、シャノの仕事の範囲は広がっていく。見知らぬだれかの職分が、いつのまにかシャノに振り分けられている。よくあることだ。こなせばいい。
クロゥに問いただされるたび、シャノは笑った。
「わたしにできることが増えたのよ? すごいと思わない?」
でも、下働きの汚れ仕事だと、クロゥはきっと思っていることだろう。構わない。シャノが自分で決めたことだ。
イシナは、知っているはずだ。シャノがいびられているのも、雇っている娘たちの仕事の量が偏っているのも把握しているだろう。知っていても、手助けはしてくれない。
あえて求める気にはならなかった。イシナは『家』に内緒でシャノを働かせてくれている。給金も、問題さえ起こさなければ、一人前以上に払ってもらっていることは、先日知った。文句を言う筋合いではない。
シャノが働くには、『家』の者がなぜか近寄らない港町は格好の場所だ。理由はわからないが、この町の周辺に住む者が共通して、『家』によい感情を抱いていないことは、まわりの話を聞いて理解した。
きっと、クロゥもわかっていたのだろう。ふつうの店の売り子では、港町の者たちと嫌でも接さなければならない。だが、旅籠では、相手をする客は、島の人間ですらないのだ。ここは、『家』の娘であるシャノにうってつけの働き口だった。
厨房に入って、まっすぐにいちばん奥の洗い場にむかう。シャノが脇をとおると、料理人たちの空気が凍った。彼らもどうやら、シャノの給金の額を知っているらしいことは、先日気づいた。さすがに大人は、面とむかって何か言うことはないが、同年輩の若者はそうもいかない。厨房もまた、さほど居心地の良い空間ではなかった。
気にしないでいれば、いつのまにかみんな、シャノの存在も忘れてしまう。世間話が飛び交いはじめる。それまではひっそりと息を潜めて、皿や鍋とだけ話をしていればいい。
洗い物も楽しい。洗濯と違って、たまに思いもかけない音が鳴るのがいい。山のように積まれた皿をかたちと大きさごとに仕分けして、鍋をすすいで──
時間が過ぎるのも忘れて、シャノは洗い物に没頭していった。腰が痛むころになって、ようやく意識をとりもどした。
料理人たちは夕食の仕込みも終えてしまったのか、姿が見えない。皿は水気も拭いて、すっかりと片付けおわっている。
シャノは手鍋を手に取った。厨房の隅で丸椅子に腰掛け、酢と塩を使って鍋を磨きだす。いくつかの鍋をぴかぴかにしたあたりで、鏡のようになった鍋底に、自分以外のだれかが映りこんだ。夜明けの色の制服に、大柄なからだ。腰には手をあてて。
「……トエト?」
振りかえると、トエトはシャノの手元をじいっとのぞき込んでいた。
「──あんたに良いものを持ってきたのよ」
言うなり、大きな貝殻を差しだされて、シャノはびっくりしいしい、あわてて両手で受け取った。
「ずいぶん指先が痛んでる。きちんと手入れしないと、ひび割れるよ。それ、舶来の良いやつ。あたしの使ってるのを分けてきたの」
二枚貝を開けてみると、中にはこんもりと白い軟膏が入っていた。顔に近づけると、ふんわりと花の香りがした。
「ありがとう!」
笑顔で礼を述べ、貝殻を胸に抱くと、トエトはバツの悪そうな顔になった。
「悪かったよ。あたしが誘ったばっかりにさ。仕事を押しつけられて、酷い目に遭ってるんだって? こんなことになるなら、もっと早く、あんたにいろいろ教えてやるんだった」
「気にしないで。嫌じゃないのよ? わたし、まだまだ給金に見合う働きはできていないと思うから。それにね、働くって、楽しいの」
磨き終えた鍋を作業台に戻すと、かぁんと間抜けた鐘のような音が響く。トエトは噴き出して、呆れたように笑った。
「それそれ! そうやって音鳴らして遊んでるんだよね、シャノは。洗濯しながら踊るわ、うたうわ。あげくの果てにお皿やお鍋を楽器にしてさ。ナキムたち、青筋立ててたわ」
トエトはシャノが磨いたばかりの鍋を手にして、顔のまえまで持ち上げ、ためつすがめつし、感嘆の息をもらす。
「遊んでるけど、ちゃんと仕事してるのよ。この鍋の底なんて、鏡みたい」
取っ手をもって、くるりとまわす。シャノの顔が輪郭もはっきりと底に映った。鍋を手元でくるくるともてあそび、トエトはむこうに目をやった。
「あたしもね、最初はムカついた。あんた、『家』の人間でしょ? 女将さんの従妹だから優遇されてるんだって。でも、あら探ししようにも何にも見つかんないのよ。真剣に仕事してるの。それだけじゃなくて、遊ぶことも忘れてなくてさ」
こぉぉん。わざと音を鳴らして鍋を置き、トエトはニッとくちびるの端をあげた。
「ねえ、シャノ。もっと稼がない?」
あっけらかんとした物言いに、一拍おいて、シャノは首を傾げる。
「察しが悪いね。大陸語を教えてやるって言ってるの。話せるようになんなさい。いまの仕事量で、大陸語も話して、外向きの仕事の補助ができたら、あの子たちだって勝手に黙るさ。あんたなら、そんなに難しいことじゃないと思う」
「ほんとうっ?」
椅子を蹴るように立ったシャノに、トエトは肩をすくめた。
「やる気次第だよ、シャノ。でも、あんたの根気強さや、めげないこころは大きな武器になる。大陸語だけでなくって、常識も身につけば、外向きの仕事に配置をかえてもらえるかもしれない」
こてんと、また首を傾げると、トエトはくくくっと喉の奥のほうで笑う。磨き終えた鍋を重ねる手元をみて、シャノは戸棚をあけた。渡される鍋を次々にしまう。
「港町をひとりでうろつくような箱入り娘に、下町の常識とやらを教えてやるよ。ここにいる大店の娘だって、必死にからだにたたき込んだんだ。あんただってできるさ。ナキムたちと仲直りするためにも必要なことだよ」
いったんことばを切って、トエトはニヤリとした。
「クロゥも誘って、うちに勉強しにおいで。そうすりゃ、あいつも大陸語も覚えられるし、シャノを家まで送り届けられるでしょ」
「クロゥも? なぜ?」
問いかけたあたりで、だれかが廊下を歩いてくる音がして、シャノは口をつぐんだ。無駄口を叩いている自覚はあった。与えられた仕事は終えたとはいえ、だれかに見られていい状況でもない。
「シャノ! 迎えに……」
来たぜとでも言おうとしたのだろう。クロゥはトエトとシャノがむきあうのを見て、表情を強ばらせる。彼のことばを封じるようにトエトが先んじて声をかけた。
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