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「クロゥ、あんた、シャノといっしょにうちに大陸語の勉強に来ないかい?」
「でも」
クロゥはこちらを見た。シャノが強要されているとでも思ったのだろう。その疑いを晴らそうとしたが、これまた、口を開くのはトエトのほうが早かった。
「シャノは喜んでるよ。あたしね、あんたが何のためにこの旅籠で働きはじめたのか、小耳に挟んだんだよ。なんでも、好きなコに贈り物をしたいからだとか。ぜひとも手伝ってやりたくってねえ……」
トエトはにやついた口元を隠しながら、ちらりとクロゥを見やる。クロゥは泡を食った表情でシャノに目を走らせ、よしてくれと手でトエトを止めた。
ふたりのやりとりを、シャノはぽかんとして見つめていた。初耳だった。
──クロゥにだって、好きなひとくらい、いるよね。当たり前だわ。
相手はだれだろう。まさか、フェリでは。
脳裏に、曾祖母の葬儀での一幕がちらついた。フェリは金に輝く髪をゆらして、艶やかにクロゥに微笑みかける。彼女のくちびるに浮かぶ媚びが、不安をあおり立てる。
痛みを感じて、シャノは胸を押さえた。
「クロゥは来なくていい! 初めにトエトに誘われたのは、わたしだけだものっ」
「はぁあっ?」
クロゥが素っ頓狂な声を上げるのを目にして、トエトはさもおかしそうに高笑いした。
「まあまあ、シャノ。競争相手がいたほうがあんたの飲み込みだって良くなるさ。あたしだってね、遅くにあんたみたいなお嬢さんをひとりで家へ帰すのは怖い。だれも損はしないんだから、許しておやりよ」
とりなされて、シャノはくちびるを尖らせ、目をそらした。
「本当? 本当に、覚えるの、早くなる?」
トエトに問いかけてみて、聞いたようなせりふだと思った。
「ああ、ほんとうさ」
トエトの返しを聞いて、先に笑ったのはクロゥだった。トエトに目で問いただされて、彼は笑みを残したまま答えた。
「メーナに──シャノの妹に似てると思って。やっぱり、姉妹だよな」
「……否定しないわ」
それでも、子どもっぽいと言われた気がして、むくれたシャノをよそに、ふたりはメーナの話を続ける。
「まだ、こーんなに小さいんだ。でも、顔も声もシャノとそっくり」
「へええ、さぞかし可愛いだろうねえ」
むずむずして、シャノは大声で割り込んだ。
「可愛いに決まってるでしょ! わたしの大事な妹だもの!」
トエトとクロゥは目を見交わして笑う。その意味がわからなくて、今度こそカッとなって、シャノはふたりを置いて着替えにむかった。みんなで帰り支度をするころには、夕暮れの空は暗くなりかけており、さすがに長居しすぎたと、ちょっと反省する。
トエトの家はすぐ近くだと言うので、今日は旅籠の前で別れた。次からは、いっしょに行くことになるだろう。
クロゥと歩きだしてまもなく、町のあかりはうしろに遠ざかった。周囲が完全にまっくらになるまでは、さほどの不安は感じなかった。灯りを借りてくるのだったと、シャノが後悔しはじめたのは、海沿いの道を半ばまで辿ったころだ。
むこうにほのかに明るく見えるのは『家』から見える灯りか、それとも別の何かか。比較対象がないと、距離がうまくつかめない。昼間なら、海や山の角度ひとつで場所がわかるというのに。
こんなに暗くなっては、乳母が探しに出ているだろうか。こちらにはぜったいに来ないと、言い切れないところが痛い。
旅籠で働いているのが乳母や両親に知られてしまったら、晴れ着代の捻出どころではなくなってしまう。
まっすぐ歩いているつもりなのに、膝やつまさきに道端の下草がふれる。このまま暗闇に飲み込まれて、溶けてしまいそうだった。
クロゥがすぐそこにいるはずなのに、姿がわからなくなった。砂利を踏む音を頼りに手を伸ばしたが、彼に触れることはできなかった。一気に、心臓のあたりから震えが走る。バチで胸をたたかれるような鼓動のせいで、息が苦しくなった。胸元を服のうえから押さえて喘ぐ。
遅れたつもりはなかったのに、クロゥの足音はだんだんと遠ざかっていくように思えた。
「──やだ」
恐怖に小さく声がもれた。
「クロゥ! お願い、待って!」
呼びかけて、手で探る。早足になって、頭から何かにぶつかって、悲鳴をあげた。駆けだそうとした腕を掴まれて、また叫ぶ。
「……シャノ、落ち着いて! 俺だよ!」
聞き慣れた声に、シャノは膝からくずおれた。安堵のあまり、涙があふれ、頬を濡らす。
クロゥは手探りでシャノにふれる。シャノの頬に流れるものに気づいて、温かな指が不器用に涙を拭ってくれた。
「ごめん。ちゃんと、手を繋げばよかった」
悔やむように言い、彼はシャノの髪の毛を撫でた。自分の肩に押しつけるように頭を抱いて、近くなった耳元に小さく囁く。
「シャノは、成人儀礼のあとの耳飾りって、何をつけるの?」
「決めていないわ。クロゥは決まってる?」
「──真珠が似合いそうだなって思ってる」
クロゥに、真珠? シャノはそう問いかけようとして、やめた。クロゥ本人ではない。クロゥの思いびとに、真珠が似合うのだ。
フェリにも似合うなと思った。でも、フェリなら、瞳に合わせた紫の石のほうが映える。そう言ってやろうかと、口を開きかけたときだった。
「だれか、来た」
地面がゆれていた。車だ。馬車か、牛車が近づいてきている。むこうに、ともしびがふらふらしていた。牛車だ。道をゆずると、車のうえから顔をのぞかせる影があった。
噂をすれば、なんとやらだ。めずらかな金髪は、夜闇のなか、火に淡く透ける。白い肌は暗いなかでもひときわ目立った。
「──あなたがた、何をなさっているの?」
とげとげしい口調には、非常に聞きおぼえがあった。
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