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大陸語を学びはじめてそう経たぬうちに、シャノは客の前に顔を出すようになった。それは外向きの仕事だからと、これまでは客と接したこともなかった。
旅籠のなかを移動するときに客と行きあえば、脇の廊下や空き部屋へ避けて道を空けていた。宿泊客の出迎えにも見送りにもいったことがなかった。
「自信をつけるには、下手でもとにかく話してみるのがいちばんさ」
トエトに引きずられるようにして旅籠の前に出ると、見送りの挨拶のために、ずらりと外向きの従業員たちが並んでいた。周囲の視線が自分に集まる。当たり前だ。内向きの仕事に就いているシャノが本来居るべき場所では無い。特に、従姉のイシナからのまなざしは、痛いくらいだった。
ぴりっとした緊張を頬に感じて、シャノは俯きたいのを必死にこらえ、なけなしの誇りを胸に笑みを作った。トエトに背を押され、勇気を出して、先陣を切る。
「またのお越しをお待ちしております!」
習いたての大陸語で言うと、一人目の客は微笑み、「ありがとう」「さようなら」と手を振ってくれた。
──通じた!
うれしさに自然と表情が緩んだ。トエトと気持ちを共有しようとしてふりむいてみて、代わりにむけられた従業員たちの鋭い視線にたじろぐ。沈黙を破ったのは、イシナだった。
「お気をつけておかえりくださいませ!」
笑顔で声をはりあげる若女将の姿に、従業員たちはみな、我に返ったようだった。口々に挨拶を述べる。そのとき、ひとりの女性客が、生け垣に咲く花に手を添えた。
「これ、なんて花?」
白い花だ。シャノは進み出て、同じように花を手で支えた。
「ルメリアですね。島では、ユプワと呼びます。とてもよい香りがしますよ」
大陸語で花の名を教えて、イシナに目配せする。イシナはうなずいた。シャノはユプワを摘み取り、女性客に手渡した。彼女はうれしそうにして花を挿頭し、礼を言うと、シャノに銅貨を握らせて去っていった。
客がみなはけたあとで、シャノはもらった銅貨をイシナにさしだした。従姉はそれを一瞥し、かぶりを振った。
「受け取っておきなさい。あんたがいただいたものよ」
「でも、渡した花は旅籠のものだもの」
譲らないシャノに、イシナは肩をすくめる。
「あんたのもてなしにお金が払われたのよ。……大陸語、けっこう話せるじゃないの。外向きの仕事にも顔を出しなさい。まずは、このあとの食事処で給仕をやってごらん。何日かやって使えなかったら、内向きに戻すから」
言い捨ててイシナが旅籠のなかへ戻っていく。信じられない気持ちで見送っていると、トエトがシャノの肩をぱしんと叩いた。
「やったじゃないの、シャノ!」
トエトが歯を見せて満面の笑みで喜んでくれるのに、実感がわかない。戸惑っていると、三々五々、他の従業員もなかへ帰りはじめる。シャノの隣を通りすぎざま、だれかが言った。
「調子に乗りすぎ」
顔がこわばる。トエトが眉をひそめ、ふりかえるも、だれのことばかはわからなかった。
昼時は、旅籠の一階で食事処を営んでいる。給仕係は外向きの娘たちの当番制だ。シャノは初めて、厨房ではなく食堂のほうに出た。
重い盆を手に食事を運び、大陸語を操りながら行ったり来たりする。わからないことばが出れば、他の娘に頼るしかない。そうして、初めての給仕に忙しくしていたときだ。窓の外に金髪がひらめくのが見えた。
「いらっしゃいませ!」
出迎えに出て、そこにいた人物を見て、シャノは数瞬ことばを忘れた。
フェリだった。彼女のほうも、よもや見つかるとは思っていなかったのだろう。物陰に隠れていたつもりだったらしい。びっくりしたような顔をしていた。
「何してるの?」
問いかけるシャノを振り切って、フェリは踵を返そうとする。その足が急に止まった。視線のさきを辿って、シャノは納得する。
クロゥがいた。客をこれから迎えにいくのだろう。大人の男たちといっしょに、牛車を港へむかわせるための支度をしている。
「クロゥを見に来たの?」
「変なことを言わないでちょうだい!」
フェリの白い頬は、見る間に真っ赤になった。シャノを追って出てきた給仕の娘が、彼女に大陸語で話しかける。金髪のせいで、島の人間とはわからなかったのだろう。
フェリは当然の顔をして案内された席に着くなり、高い声で言い放った。
「ああ、お金がないって嫌なことね。シャノ、あなたも、ひいお祖母さまの葬儀に晴れ着をさしださねばならないなんて、災難でしたわね。あのときは、さすがにわたくしも同情いたしましたのよ?」
ふいうちで『家』の恥を言い立てられて、シャノは凍りついた。離れかけていた給仕の娘が足を止め、こちらを見る。
腹の奥まで、ゆっくりと深く息を吸う。慇懃なしぐさで、フェリに品書きをさしだす。
「災難だなんて、とんでもないわ。敬愛するひいお祖母さまの魂を蒼穹の神の御許へと送るために、最高の装いをしていただいたのよ」
フェリは品書きを手の甲で脇によけ、にっこりと笑ってみせた。
「でも、お金がないのはほんとうでしょう? 働かねばならないだなんて」
「自分が欲しいものを、自分で稼いだお金で買うのは、当たり前のことよ。親を頼りにする時期はもうすぐ終わるの。それが成人するってことだもの。わたしは、もっと早くにそのことを考えなきゃいけなかった」
シャノにはまだ、あまり実感のない事柄ではあるけれど、周囲の話をきく限りでは、貯めた給金で糸や布を買い、晴れ着を仕立てていくのは、島の娘たちの成人儀礼の支度としてありふれている。
親が成人儀礼に金を出さないからといって、恥じる必要などどこにもない。むしろ、自分が大人になるための儀礼なのに、晴れ着を親に世話してもらうことのほうが恥ずかしいとさえ、彼女たちは考えているに違いなかった。
フェリは黙りこんだ。シャノは厨房で茶を淹れてきて、彼女の前に出した。
「飲んだら帰って頂戴。ここはわたしの仕事場なの。席に着けるのは、お客さんだけよ」
ひとくち、茶を口に含んで、フェリは驚いたようにこちらを見上げた。ふたくち、みくちと飲みくだして、杯のなかを覗きこむ。
「──おいしい」
「それ、その子が淹れたのよ」
給仕の娘が通り過ぎざま、声をかけていく。フェリはシャノのほうを振り向き、シャノは娘を目で追った。
娘はふりむかず、自分の仕事に打ち込んでいる。それを見て、シャノもまた、フェリの側を離れた。他の客の世話をするあいだに、フェリはいつのまにかいなくなっていて、空の茶杯だけが食卓に残っていた。
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