蒼穹の神 海の神

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 港から牛車が戻る音を聞いて、シャノは手早く手にしていた食器を片付けた。給仕のあと、内向きの仕事として食器洗いに取りかかっていたのだが、少し時間がかかりすぎたらしかった。  前掛けを取りながら厨房の裏から顔を出すと、トエトたちが外へ向かうのが見えた。シャノは流れに身を投じて、旅籠の表へ出た。  牛車には、今日、港についた貨客船からの旅行者が乗っている。紅毛碧眼のひとびとは、少し大柄で恐ろしく感じることもある。  御者が手綱をとる。のろのろと跳ねたり歩いたりしていた牛が足踏みをして、とまる。慣れたものだ。御者が牛をとめているあいだに、シャノたちが動いた。御者席の隣からクロゥが飛びおりる。 「ようこそ、島へ!」  おきまりのあいさつで迎えて、積まれた荷物をおろし、牛車を降りる女性客に手を貸す。シャノも四角い革鞄のひとつを受け持った。  重みにふりまわされつつも、ようよう持ちあげると、うしろから、鞄のとってに手がかさなった。  さてはかっぱらいかとキッと振りあおいでみて、シャノは疑ったのを恥じた。その隙をつくように鞄を奪われていた。 「わ、わたしのしごと……っ」  抗議すると、かわりと言うには軽すぎる布袋を押しつけられる。脇でやりとりを見ていた娘がそろって笑った。ひとりがふくみのある言いかたをする。 「あたしたちのも持ってってほしいものだわねぇ、クロゥ?」 「残念。俺の腕は二本しかないもんで」  軽くあしらって、クロゥは踵をかえした。みんなが敬遠したせいで荷台に残っていた鞄を取り、さっさと客室棟へと行ってしまう。  牛車も役目を終えて、車庫へとむかっていく。残されたかたちになって、シャノたちはしばらくあっけにとられていた。 「……ひゅう」  口笛のまねをして、トエトがおどけた。 「わ、気障ったらしい! ちょーっと前まで、こどもっぽかったのにね」  場がわく。シャノはこそばゆい気持ちで、仲間とともに仕事に追われた。  『家』に帰りつくと、いつかのようにメーナが部屋の前で待っていた。このごろは特に多い。構われたがりの妹は、いつもシャノのために花だの何だのと何かしら用意をして、姉の帰りをいまかいまかと待っている。  花冠づくりは二度続いたし、その次は人形だった。裁縫はあまり得意ではないのだが、端布(はぎれ)で作った人形を、メーナはよほど気に入ったのか、いまでもよく、胸に抱いている。  今日もやはり、何か両手にたずさえていた。片手にひとつずつの椀を小さな手で捧げ持って、メーナは壁に背を預けている。  こちらに気がついて、トトトっと駆けよってくるのは、何よりかわいらしい。 「お姉ちゃん、これ!」  『おかえりなさい』よりも先に、椀がさしだされる。独特の甘いかおりが鼻をついた。飴だ。あの露店のモノだ。 「くれるの?」 「うん!」  誰が買いに行ってやったのだろう。シャノのぶんまでとは、なかなか気が利いている。 「ありがとう。なかでいっしょに食べよう」  椀を受けとってうながすと、メーナは誇らしそうにした。 「あのね、買いに行った!」 「……メーナが?」  たずねかけると、小さな頭が縦にふられる。シャノはおどろいてたちどまり、その場にかがみこんだ。目線をあわせる。 「ひとりで?」  もう一度、うなずく。自分とおなじ、海色の瞳が期待に輝いている。  ──ああ、褒めてほしいのか。  シャノはメーナの頬に手を伸ばしてみた。パサーのするように、目を細めて、声色をやわらかくする。 「よく、できたね」  耳元の髪を梳いてやると、メーナは屈託のない笑顔になった。シャノのてのひらにほっぺたをすり寄せる。ふっくらした感触に、頬をつまんでみたい衝動に駆られる。まったく、メーナの愛嬌にはかなわない。  そんな自分に内心では笑い、シャノは近くにいた使用人のひとりに火を頼んだ。灯りを持って、ふたりで部屋に入り、  足が、とまった。笑顔が残ったまま、表情が凍る。すうっと、気持ちが冷える。 「どうして……?」  部屋の床いっぱいに、硬貨が散乱している。戸棚のうえを見あげる。給金を入れておいた箱が倒れている。てのひらでつつめる籐の箱。そのふたがはずれて、なかがこちらにみえる。  戸棚の足元には踏み台があった。箱がシャノの目線よりも、やや高いくらいの棚だ。そんなところに踏み台なんて──  使用人のしわざではない。直感した。  ふりかえる。メーナが顔をあげる。きょとんとした表情が、かんにさわった。 「メーナなのね? これ、わたしのお金で買ったのね?」  語調がきつくなる。持っていた飴を示す。目の前につきだされた椀にびくりとして、両手でささげもった飴の椀で、メーナは顔を隠そうとする。 「どうして! わたしが晴れ着のためにお金貯めてるの、わかってたでしょッ?」  目も合わせない。何か言いたそうにするのがいっそう苛立ちを煽った。 「なんとか言いなさい」  メーナはふるえた。目をうるませて、くちびるを噛む。椀をつかむ指にぎゅっと力が入っている。 「……飴、かえしてくる」 「できるわけないでしょう、そんなこと!」  カッとなって、メーナの手から椀をはたき落としていた。椀がひっくりかえって、メーナの頬から胸元にかけて、飴がべっとりとまとわりついていた。  メーナはびっくりした顔で立ちつくした。ぽろっと、涙がこぼれる。一瞬おいて、ふぇっと、喉がつぶれたような声がもれた。顔がゆがむ。  嗚咽して、泣きわめいて、べたべたと飴で糸を引く手で、頬をぐいとぬぐう。顔にも髪にも飴がのびる。 「おね、えちゃ、」 「うるさい!」  ひっこみがつかなくなって怒鳴りつけてしまった。その声に、自分でも傷ついた。メーナは逃げるように部屋を飛びだしていく。そのあとも追えずに、床に腰を落とした。  泣き声が遠ざかっていく。冷静さをとりもどして、目についた手近な小銭や紙幣をひろいあつめる。床を這いまわり、手のなかの額がふえていくごとに、自己嫌悪が募った。  無くなっていたのは、銅貨二枚きりだった。  シャノは知っている。そんなの、一日ぶんの給金にも満たない。  メーナを叩いたてのひらは腫れていた。  飴くらい、買ってやればよかったのだ。  膝をかかえてうずくまる。てのひらのしびれる感覚に耐えられなくて、シャノはからだを起こした。  ──謝りに、行こう。  気合いを入れて立ちあがったときだった。ほとほとと、木戸が叩かれた。
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