蒼穹の神 海の神

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 外は真っ暗だった。シャノはクロゥのもとに走った。『家』にいなければ、そこ以外にこころあたりなんてなかった。  たずねてきたのはメーナの乳母だった。そろそろ寝かしつける時間だからと部屋まで入りこんできて、妙な顔をした。 『メーナさまは?』  そのひとことで、シャノは事態を悟った。  灯りをもってくることはやっぱり忘れていた。暗い道のりをひといきに駆け抜ける。クロゥの家は港からは離れている。海側の寺院のほうに下ったあたりだ。  家のなかの火は消えていた。メーナはここにはいないのだ。もう寝ているだろうと思ったが、構わずに大声で呼びかけた。まもなく扉がひらく。見慣れた顔がのぞく。  クロゥの顔をみたら、泣き崩れてしまいそうになった。 「メーナが、いなくなっちゃった。わたしのせいなの、わたしが怒ったから!」  まくしたてるシャノをなだめて、クロゥは夜着も着替えぬままで、仲間の漁師の家々にむかった。  ゆくえをたずねてもらっているあいだ、シャノは『家』から来た下働きの女たちといっしょに寺院にむかった。  飴屋の周囲にいるのではないかと思ったが、そこにも姿はなかった。棚田にも、海辺の道にも、港町にも。  ひとばん島じゅうを探し続けたが、メーナはみつからなかった。  翌朝のことだ。朝の満ち潮にのって、ちいさな遺体があがった。  誤って引き潮にまかれたのだろうと、見つけた漁師のひとりが言った。  島の冬の夜は、潮が大きく引く。メーナは知らなかったのかもしれない。水辺に近づいて、波にのまれた。  母は泣かなかった。子どもには魂がない。メーナが大人になるとき、からだに宿るはずだった魂が、無事に蒼穹に帰れるようにと言って、赤くなった目じりを押し隠していた。  シャノはそんなもの、迷信だと思っていた。魂なんかみえないし、魂のつばさが涙でぬれて飛べなくなるなんて、信じられなかった。  いまは違う。  部屋のなかでさえ、泣くのをこらえた。メーナのからだは、祖母のように焼かれることはない。葬列もない。喪の期間もない。  死んだときの服装で木箱にいれられて、七日七晩よみがえりを待ったら、海に流される。  よりにもよって、自分の命をうばった海に。  シャノは旅籠のしごとを休まなかった。手を動かしていたほうが気もまぎれる。こうしていれば、七日七晩など、すぐに過ぎさってしまいそうだった。  それでもどこか、日々のできごとは、うすぎぬを一枚隔てたようだった。  仲間には、メーナのことは言わなかった。クロゥとイシナだけが知っている。  いたたまれなかった。おまえのせいだと、面とむかってなじってほしかった。  そんななかでも、晴れ着の準備は進んでいった。シャノも、旅籠の娘たちといっしょにつくることにした。  布と糸を買い足しに行くみんなのあとをついていって、自分も布を買った。市で、売り子のおばあさん相手に値切ったり、派手だの地味だのと言い合ったりして選んだ布地は、やっぱり海色をしていた。  旅籠の狭い控え室に集まって、膝をつきあわせて、それぞれの晴れ着を縫った。しごとの合間の暇や、終わったあとに居残って、すこしずつ作業をすすめる。  シャノの選んだ布には、《馬》も《海老》もなかった。ただ波立つように、白い線が染め残されている。  広げたまま、くるくるとまわしてみては、ぬいあがったときに文様の出るむきを考える。できあがりのかたちに整えてみた布地は、右の足元から左肩へと幾本かの線が這いのぼるようなかたちになる。  きれいだと思うのに、納得がいかなかった。手元がおぼつかない。  針を動かしながら、トエトがささやいた。 「このごろ、あんた、顔色悪いね。ぜんぜん楽しそうにしないじゃないか」  見抜かれた気がした。シャノはすがるようにトエトをみた。いぶかしそうな目にぜんぶ打ち明けてしまいたくなる。口を開きかける。  と、反対側の隣で明るい笑い声があがった。  いけない、場の空気を悪くしてしまう。しぼんだ欲求を、トエトはくんだようだった。 「シャノ、気持ち悪いみたいだから、あたし、ちょっと外の風に当ててやってくるよ」  シャノのぶんまで、手早く裁縫道具をまとめ、トエトが二の腕をつかんだ。痛みにひきずられながら、旅籠の外に出る。  そのとたんに、口からこぼれでていた。 「妹が死んだの」 「……妹って、『こーんなに小さい』?」  言いながら、トエトは手で腰のあたりを示した。うなずくと、しばらく黙りこむ。  理由も言っていないのに、シャノは審判を待つ気分になった。トエトはなんて言うだろう。『お気の毒』『残念ね』『つらいわね』?  そんな返事、期待していない。  トエトは目をさまよわせ、首をかしげて。口から出たのは思いもよらないことばだった。 「それって、落ち込むようなことかい?」 「──え?」  虚をつかれた。シャノの表情に、トエトはすこし言いにくそうにした。 「『家』では、子どもは死なないのかもしれないけど、子どもって、結構かんたんに死ぬのさ。あたしも姉ふたりと弟が死んだけど、兄弟が多いから、すぐに忘れた」  中庭へ歩きだして、顔がみえなくなる。シャノは背中をおいかけた。距離をつめると、滝のほうをみたまま、トエトは言った。 「死んじゃった直後は、ああしてやればこうしてやればって思うだろ? あたしも、弟が商船から落ちて死んだとき、あたしも船についていって手を繋いでいてやればよかったって思った。でも、乱暴な言いようだけど、そんなのと、死んだのって関係ないのよ」  トエトは振りかえった。 「大陸ではね、死んだ子は『神さまに愛されすぎた』って言うらしいよ。いつか、子どもが死んだばっかりだっていうお客さんが教えてくれた。可愛い子の写真見せてくれて。  あたし、それ聞いたらさ、良い子だったもんなあって納得しちゃった。弟、もっと下の弟がほしがるから、ごはんあげてたんだ、ないしょで。腹が減ってふらついたのさ。それは(あいつ)が選んだことで、神さまが見つけて、褒めてくださったんだよ」  違うと、詭弁だと、トエトの目が語っていた。だからこそ、シャノはわかった気がした。  死ぬことに、理由なんてないのだ。  早びけして、『家』にたどり着いてすぐに、シャノは部屋にこもった。荷物をひろげて、途中まで縫った晴れ着の糸をほどいた。違うかたちに縫いなおすつもりだった。  暗くなっても、火をもらってきて、縫いつづけた。そうして、しあがるころには、朝日がのぼっていた。八日目の朝日だった。  シャノはメーナの部屋にむかった。周囲には、ひどい臭いが立ちこめていた。におい消しに焚かれた甘ったるい香の煙でむせかえるほど白くなった部屋から、寝ずの番をしていた乳母が隈の浮いた顔を見せる。  話をして、なかにいれてもらい、棺をあける。目を閉じたメーナは、蜜色よりもずっと黒ずんだ肌をしていた。あの日、頬や手についていた飴はすっかり流れている。  頬にふれてみて、ぐずりと崩れそうになる肌に息を吐く。シャノはくちびるをひきむすんで、胸にだきしめていたものをひろげた。  縫いあがったばかりの晴れ着だ。ぐねぐねとして重たくなったからだを抱き上げると、膝まくらでメーナを寝かせたあの日が蘇って、シャノはにじむ涙をこらえた。  腕をつかんで、どうにか袖をとおす。背をまわして、反対の袖もとおし、前であわせる。離れて眺めてみて、自分の顔がゆがむのがわかった。  クロゥの言うとおりだ。海色の晴れ着をまとったメーナは、曾祖母の死んだ日、晴れ着をまとっていたシャノにきっとそっくりだった。まるで、自分が死んだような気にさえなる。  何も、声をかけてやることはしなかった。息をつめて棺をとじ、部屋をでる。  シャノは、空を見た。蒼穹は高い。  行ったのだ、メーナは。このからだも昼には海に流される。潮に乗ってだんだんと遠ざかり、やがて、沈んでいく。  海神の御手(みて)にいだかれて眠るのだ。メーナは神さまに愛されている。あんなに着飾っているし、もっとよく目に留まるはずだ。  ──お姉ちゃんが、そう祈っているから。  こころのなかだけでつぶやいて、シャノは部屋を離れ、歩きだした。
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