南の『家』と北の港町

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 これまで島の北側には、片手の指で足りるほどしか来たことがない。  しっかりと石畳で舗装された道は、シャノにはかえって歩きにくい。南側と違って、街路樹としてきちんと管理された椰子は、道沿いに等間隔に並んでいて、どうにも落ち着かなかった。  島の北側には、大陸との交易港がある。そのせいで、いろいろなところに大陸の影響が見てとれる。時折見かけるひとびとの服装も、奇抜な色合いの建物も、町の至るところにある妙な文様も、みんな大陸のものだ。  イシナの夫の営む旅籠は、町並みから少し外れた高台にあった。港や町を見下ろせる景色の良い場所だ。  石を組み上げた土台のうえに、大きな建物がある。土台だけでシャノの背丈ほどもあるのだから、信じられない。外から見上げると、建物の異様さはひときわ目につく。  まず、二階建てというのが南では見ない様式だ。見晴らし台のように庭に張り出した一階もさることながら、二階の外廊下からは素晴らしい眺望が得られそうだった。徹底して、大陸風のようで、黒い瓦を葺いた屋根や朱塗りの丸い柱が遠目にも目立っている。もしかしたら、港からも見えるかもしれない。 「大陸(あちら)では、この色が旅籠の看板がわりなのよ」  入り口の柱をぱん、と、てのひらで軽く叩いて、イシナはあいさつもなしに奥へと入っていく。あたりまえだ。この旅籠のおかみなのだから、まさに我が家なわけである。  シャノは建物の大きさにいまさらながらに圧倒され、ほうけていたが、イシナが柱を叩いた音で、ようやく目が覚めた。気を取り直して、自分も中に入ってみる。  『家』ほどは広くないが、邸宅としては、じゅうぶんに大きい部類に入る。棟が四つあり、すべてが渡り廊下でつながっている。どれかがイシナの家で、ほかはすべて旅籠の棟なのだろう。 「うちのひとに話をつけてあげる。いまなら、きっと部屋にいるよ」 「ありがとう。助かるわ、イシナ」  これでお金がもらえる。そうすれば、新しい晴れ着が用意できる。うれしくなって、歌い出したい気分で通された部屋に入り、そこに座っていた男を見て、シャノはびっくりして目を見開いた。  イシナの夫は、思ったよりも年上だった。二倍くらいの年齢なのではないだろうか。三十は過ぎているように見える。がっしりとした分厚そうなからだつきに、口ひげが似合う。ひなたでまどろむ牛のように、温厚そうな人柄が透けて見える。 「昨晩話したでしょう? この子がシャノよ。どうかしら? 考えてくれる?」 「そうだねえ」  じょりじょりと音を立てて顎を撫で、旅籠の主人は、シャノを頭のてっぺんからつまさきまでじっくりと見回した。そうして、ふうむと唸った。 「ずいぶん細腕だな。手も荒れていないし。ほんとうにだいじょうぶなのかい?」 「ネコの手も借りたいって言ってたじゃない。いいでしょう?」  夫婦のやりとりに首をかしげていると、彼はシャノの目を見て、優しく問いかけた。 「成人の晴れ着が無くなってしまったんだって? たいへんな目に遭ったね。ちょうどいま、うちは繁忙期だから、助けてあげられると思うよ」  このことばに、シャノは喜色満面になった。 「ほんとうですか!」 「ああ、ほんとうだとも。ひとつきぶんも貯めれば、晴れ着を仕立てられるくらいは払ってやれる。ただし、はじめの十日間は見習いだから、給金は三割。十日を過ぎて問題がなければ、ひとつき雇おう」  見習い? 給金? 雇う?  よくわからない単語に面食らって、シャノはイシナに目配せする。 「イシナ、晴れ着のお金をくれるんじゃないの?」 「ん? ええ、そうよ。年の末まで、まだ三月はあるでしょう? だから、ひとつきとちょっとだけここで働かせてあげるって言ってるの。その給金で晴れ着を仕立てなさいな。あんたみたいなお嬢さん、他じゃウチみたいな給金で雇ってくれないわよ、きっと」  何を当たり前のことを言っているのだという顔のイシナに困惑する。何も言えなくなって互いに見つめ合っていると、旅籠の主人のほうが何かを察したようすで苦笑した。 「イシナ、きちんと話をしなかったろう。この子はこれまで、家の手伝いをして小遣いをもらうような経験もなかったんじゃないか? まるでわかっていないようすだよ」  そのとおりだった。シャノはふたりの言うことがわからなくて、途方にくれて立ち尽くしていた。  どうやら、この旅籠で働けば、お金がもらえるけれども、それはひとつき以上先のことだということは理解した。 「寺院より北には、ほんとうは来ちゃダメなの。ひとつきも通うなら、パサーに言って、父さんや母さんに許しをもらってくる」  乳母は、港町は危ないと言う。用のあるときにはいっしょに出かけるから、シャノひとりで行かないようにと、幼いころから何度も言いふくめられてきた。今日はイシナがいっしょだったが、次からはきっとひとりでここまで来るのだ。きちんと許しをもらえば、乳母がついてきてくれるはずだ。そう思ったのに、イシナはシャノのことばを鼻で笑った。 「あんたは『家』の子だもの。真正面から言って、伯母さんが許可するワケないじゃないの。ここは港町よ? あたしが嫁ぐときだって、ひと悶着あったのに。知らないの?」  知らない。姉の婚家についてもろくに知らされないのに、従姉の嫁ぎ先にまつわる話しなんて、シャノのもとに届くことはない。  経験がないことや知らない事柄が押し寄せて、シャノはいらいらしてイシナを睨んだ。 「じゃあ、どうしろっていうの? お金をもらうためにこそこそしろって言うの? それなら、働くのなんて、できないわ!」  シャノは『家』の子だ。《海神の巫女》の血筋に連なる娘だ。いくら、五番目でタキハヤになることはないとは言っても、みっともない真似はできない。  噛みついたのが、とうとうイシナのかんに障ったらしかった。 「いいわ、あたしが間違ってた。出て行きなさい。あんたにやる仕事なんか、ウチにも無いわよ!」  勝手に連れてきて、勝手に出て行けとは! 主人が言うのが正しければ、事情を話さなかったイシナが悪いのに。  怒りに震えて、シャノは下くちびるをかみしめた。何も言わずに踵を返して、部屋を出る。旅籠を飛び出し、坂を下りて、港にむかう。こちらのほうから来たはずだ。記憶を頼りに道を選んで歩いたが、ふと気がつくと、シャノのまわりは見たこともないものであふれていた。
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