雨に傘、

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こうやって、傘を差して雨の降る中を歩いていると、世界はあまりにも静かで暗くて、おぼろげだ。あまりの儚さに、ふと、この世じゃない別の世界を歩いているような気がする。生きているかぎり負わなければならない苦しみや悲しみが、嘘のように思える。  安物の透明なビニール傘は、何となく身を覆うという感じがせず、落ち着かない気分にさせるのだろう。  電柱にくくり付けられた白黒の看板をたどっていくと、ぼんやりと明かりを灯す門扉にいくつもの傘が入っていくのが見えた。傘だけが色とりどりで、人は白黒。  僕も同じように白黒の仲間入りをして、玄関をくぐる。狭いたたきには黒い靴が窮屈そうに並んでいた。家の奥からは、人の話し声とすすり泣きが入り混じって聞こえてくる。  今時、葬式を自宅でするのも珍しい。  短い廊下を抜けると、6畳二間の襖を取り払って12畳にした部屋の奥に祭壇があった。部屋にいる20人ほどの人々は互いに知り合いなのか、祭壇に飾られている写真の人物の話をしては茶をすすっていた。坊さんが来るまでの暇つぶしなのだろう。  部屋を見渡し、知った顔を探す。すると、高校時代の同級生がいた。向こうの彼も僕に気付いたようだ。互いに近寄り、近くの空いている座布団に座った。 「久しぶり。何年ぶりかな」 「さあね、もうずいぶん経つように思えるね」 「お前は変わらないなあ、高校生のままだ」 「ありがとうと言いたいけれど、それも何だかね」  僕がそう言うと、彼は苦笑し、祭壇の写真を見やった。 「あの顔を見ると、俺も相当歳を取ったんだと思うよ」 「いい顔じゃないかな。満足そうな、いい笑顔だよ」 「そうだな、満足だろうな」  彼は、祭壇の写真と同じように笑った。とてもいい笑顔だ。  僕も、祭壇の写真を見て笑った。 「ずいぶんとこじんまりとした葬式だけど、今時はこんなものかな?」 「こじんまりとさせたんだよ。人が多いから立派ということもないだろう」 「そうだね。それじゃ、もうそろそろ行くとしようか」 「お前はせっかちだなあ。坊さんが来るまで待てばいいのに」 「とんでもない、こっちはお経なんて聞き飽きてるんだ。さあ、立った、立った」  僕は彼を急かして立ち上がらせると、背中を軽く押した。すると、彼は再び苦笑した。その顔もとてもいい笑顔で、その時だけ高校生に戻ったような気がした。  彼と連れ立って玄関に行き、再び透明なビニール傘を広げる。僕の傘を見ながら、彼は少し思案し、傘立ての中からひょいと同じような透明なビニール傘を手に取った。僕はやれやれと思いながら、肩をすくめた。最後の最後に盗人とは。  彼は悪びれもせず、ビニール傘を開きながら言った。 「まさか、高校生の時に死んだお前がお迎えに来るなんて、神様も粋なことするなあ」  享年85歳の彼は、足取りも軽く、音もなく、その一歩を踏み出した。  雨は降り続いている。  僕らにはもう傘はいらないのだけれども、生きていた時の習慣でつい身を覆うことを考えてしまう。  だから、透明なビニール傘をつい選んでしまうのだろう。
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