きみに会うための440円

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きみに会うための440円

「あーあ、見つかっちゃったか」 言葉とは裏腹に空町あかねは、それをもう一度咥えた。 せっかくここまで足を運んだのに、とその大きな瞳と意志の強そう眉をひそめながら。 高校二年の冬休み最終日。 コンビニの裏口。 二十一時。 気温は確実に氷点下だ。 「……まあ、事故みたいなもんじゃねーの」 高槻夕は、思考するよりも先に言葉を発している自分に驚く。 彼の吐いた息が、白く暗闇に薄っすらと浮かぶのを空町はじっと見ていた。 「ほおだね……」咥えたそれのせいで空町はうまく発声ができない。「まさかキミがこんな学校から離れた場所でバイトしているとはね」 コンビニのレジ打ちをしていたところに彼女がやってきた。あろうことか同じ学校の生徒である高槻に気がつかず「四十二番、一箱」なんて言ってのけた。 しかし高槻が呼び止めたのはそのせいではない。 「どうする? 先生にでも告げ口する?」 空町は微笑んだ。まるで試しているかのように。 その形のいい頭から流れるふんわりとした黒髪が、肩甲骨のあたりでさらさらと揺れていた。 高槻は答えない。 空町が大きく息を吸い込んだ。 暗闇に一点、はっきりとしたオレンジ色が灯る。 高槻はそれを綺麗だと思った。 「なんで黙るの?」 咥えていたそれを指で挟み、口から白い煙を吐く。 「ほら、キミと同じだよ」 「同じじゃない」 「ふうん……。何が違うの?」 「それは紫煙っていうんだ。白じゃない。紫だ」 高槻はもう自分が何を言っているのかわからなかった。 「そうかなあ、どう見ても白いけど。ホワイトだよ、ホワイト。ダブリュー、エイチ、アイティーイー」 それに、と加えた。 「同じって言ったのは、白い息のことじゃない。わかってるでしょ?」 「さあな」 高槻は両手を空に向けた。 それはとぼけているのか、降参のポーズなのか。 空町は小さいなにか――暗くてよく見えないが――を取り出すと、それにオレンジの光を押しつけた。 暗闇に包まれる。 あんな小さな光でも周りを照らしていたのだ、と高槻は思った。 「校則第二十七条。アルバイトの禁止。破ったら打ち首獄門」 「ダウト」 高槻は抗議する。 「後半はね。でも前半は本当。知らない生徒なんていないでしょ」 その通りだ。だって――。 「終業式で生徒会長が言っていたじゃない。アルバイトは禁止ですからねって」 もちろん高槻もそれを聞いていたし知っていた。 なにせその生徒会長とは目の前にいる空町あかね、その人のことだからだ。 目立たないように過ごしてきた高校生活だった。 身長百七十五センチ。体重六十八キロ。 髪は柔らかい直毛で短く、目つきはちょっと鋭いが顔は良いほう。 友達は少ない。 小学校高学年の頃、親友とも呼べる男の子が女子と分け隔てなく仲良くしていただけで、八方美人とののしられ、いじめられたことがあった。いま思えば、そんな言葉をよく知っていたものだ。 そのとき子供ながらに学習した。 出る杭は打たれるのだ、と。 それ以来大人しく、つつがなく、物静かに、でも静か過ぎず、学校生活を満喫していた。 まわりの雰囲気を合わせるのが最大のコツ。 それが高槻の信条だった。高校二年生になった彼はもう深く考えることなく、そのポリシーを続けていた。 「それで進学資金のために校則違反をした挙句、生徒会長に弱みを握られた、と」 柿崎は階段の最上段に座りながら、紙パックの野菜ジュースを飲み終えた。 色素の薄い強めのくせ毛に大きい黒縁の眼鏡。 インテリとも見えなくはない。 屋上に入る手前の階段の踊り場。昼休み。 「弱みって言ったら大げさだけど」 弱みだったら高槻も握っているのだがそれは話していない。 「でもいいじゃんか、生徒会長美人だし。才色兼備ってああいうのを言うんだろうな」 柿崎は続けた。 「きっと有名大学にでも進学して、一流企業に就職してさ、それで少しばかり裕福な普通の家庭を築くんだ」 柿崎は妄想癖がある。 それは大抵の場合、どうでもいいことだ。 「そんなのわからないだろ」 「いいや俺にはわかるね。生徒会長はきっと……そう、堅実な思考の持ち主だな。そういう意味ではお前と一緒かも」 「はいはい、そうかい、わかったよ」 「まあ出会いは大切にしとけ、そんでその目立たない主義を卒業しろよ」 目立たないってのは必ずしもいいことじゃないぞ、と加える。 柿崎は眼鏡の位置を直すと腰を上げた。 それにしても講釈を垂れるくせに見る目がない。 空町あかねは重大な校則違反なんかを犯してしまう不良なのだ。 そう思いながら高槻は、先に降りていくなで肩をぼんやりと見つめていた。 ――でもまあ、きっかけはアレだったんだろうな。 生徒会長というものは、嫌でも目についた。 始業式に、三年生を送る会、生徒総会、卒業式。ご丁寧に書類にまでもその名前が記載してある。 卒業式の送辞なんかは、高槻の心にちょっと響いた。 そのとき、空町が悲しいような、困ったような――あれはそう、諦めに近い複雑な表情をしていたのが印象的だった。 しかしあの夜以来、二人は一度も会話していなかった。 あれは自分の妄想だったのではないか、と思えるくらいだった。 それが違うとはっきりしたのは、三学期の最終日。 つまり終業式だ。 空町は生徒会長として休み期間中の注意事項なんかを述べていた。 高槻は例に漏れず壇上を見つめていたのだが。 突然それは起こった。 「私からは以上です。ああ、それとこれは私信なのですが――」 生徒の九十九パーセントが指針という漢字に脳内変換していただろう。 「二年五組、高槻夕くんはこのあと例の場所に来て下さい」 一瞬の静寂のあと、生徒たちがざわついた。 柿崎が肘でつつく。 「おい、そういうことなの? いつの間に?」 そういうことってどういうことなの? 高槻にもわからない。 行かないという選択はなぜかなかった。 そして例の場所とはどこかと考えた。 なんのことはない。空町との共通認識と言えばあそこしかなかった。 道中でコーヒーを二つテイクアウトする。 その金額の偶然の一致に高槻は苦笑した。 コンビニの裏口に向かう。憂鬱そうに佇んでいる空町がいた。 「どういうつもりだ?」 高槻はコーヒーを手渡した。 ありがとうと、受け取る。 「調べたし観察もした」靴の先端を見ながら話しだす。 「そうしたらキミはあえて陰に隠れているように見えた。だから、巻き込んでやろうと思ったの。目立たせてやろうって」 巻き込む? なにに? 「ちょっと意地悪をしてみたくなったの」 ゆったりと静かに、白くて長い魔法に火を点けた。 「私ね―― 小さい頃、お父さんが吐き出した煙を見て、ああ、白い雲ってこうやって出来るんだなって思ったの。そんなわけないのにね。 それから幼い私の夢はそうやって白い雲を作ることだった」 高槻は黙って空を眺めていた。 「でもね―― もっとバカみたいな夢をみるようになったの。才能のある人が誰よりも努力し、チャンスにも恵まれてやっとご飯を食べていけるような、そんな夢。 だからね、小さな頃より、私、もっとバカになっちゃった。考えれば考えるほど、蜘蛛の巣みたいに――その中心に引き寄せられていくの。 なんでだろうね。自分でも不思議。その中心から逃げようと足掻くたびに、魅力的に見えるの」 言い終えると空町は長く煙を吐いた。 卒業式の時と同じ顔だ、と気がついた。 「けどさ、このままじゃ嫌じゃない。抵抗、したいじゃない」 「抵抗?」 「そう、抵抗。レジスタンス。最後の足掻き。 卒業式の送辞をしながら、別のことを考えていたの。 ああ――私も来年にこんな風に卒業するんだなって。 きっとなんとなく悲しい気分になって、自分が三年間で成し遂げたことを深く振り返りもせずに、雰囲気だけで泣いて、離れてもまた遊ぼうね、なんて言ったりして。 そんなの嫌だなって思ったの。思考停止だと思ったの。だから私はあの時抵抗しようと決めた。なにかしてやろうって。 今思えば、この行為も抵抗の表れだったのかもね。吸い始めたときはそんなこと、考えてなかったけどさ」 でもいざ抵抗しようと思うとちょっぴり不安だね、と無理に笑った。 高槻は彼女を羨ましく思った。 ああ、こいつはもう決めたのだ。 ならば自分が発言する意味はないだろう、と思いながら気がつけば口が開いていた。 「……誰が決めたんだよ」 「なにを?」 きょとんとした顔で尋ねる。 「バカになっちゃダメだって」 自分は少し酔っているのかもしれないと思った。 何に対して? 空町といるから? それはわからない。 「それこそ思考停止だろ? 成長してバカみたいな夢をみて、悪いなんてことはないだろう? そんなことを考えること自体が鈍化だ。考えないことで楽をしたいだけなんだ」 たぶんこれは空町に向かって言っているのではない。 目立たない自分。楽をしようとしている自分。 空町は小さく目を見開いた。 「キミがそんなことを言うとは思わなかったな」 高槻も発言している自分と、それを見ている自分がいることに気がついた。 「そんなものかな?」 「そんなもんだ」 大抵の場合難しく考えすぎなのだ。 ――きっと自分自身も。 杭が出ないように過ごしてきた。 でも、こんなところに落とし穴があった。 思考停止していた自分がそこにはいた。 真っ直ぐそれと向き合えた彼女を、羨ましく思った。 そして目を背けてきた自分に苦笑した。 でもこいつのおかげで気がついた。それで十分だ。 二人の視線がぶつかる。 「なに笑っているの?」 言いながら空町も笑っていた。 「なんでもねーよ」 きっと誰もが大切なことから目を背けて思考停止している。 でもそれを気づかせてくれる誰かに出会うことはとても難しい。 それは俺にとっての空町なのかもしれないし、そうではないかもしれない。 例えばコンビニのレジに並ぶ例のアレ。 それは――たったの四四〇円のそれは――誰かと誰かを出合わせるためのものだったのかもしれない。 ほら、また考えすぎている。 そんなことを高槻は思った。 青空に浮かぶ一筋の白い雲に向かって、高槻は思った。
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