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   あれから三笠は、あの公園での出来事なんてなかったかのように普通に戻っていた。その三笠の対応のおかげで、道生も、普通に上司と部下の関係を続けられていた。  いつものように営業から帰って来た道生と三笠は誰かに呼び止められた。振り向くと、商品企画課の瀬尾が二人に近づいてきた。瀬尾はとても優秀なバイヤーで、国内外を問わずいつも飛び回っているため、道生は実物を見るのは初めてだった。「彼に落とせないメーカーはいない」と密かに社内で噂されるくらいの実力で、外国語も堪能。おまけに高身長のため、社内の女性が放っておくわけがなく、その噂の最後はいつも「私も落とされた~い」で締められ、社内の女性陣は 営業の三笠派 と 企画の瀬尾派 の二派で火花を散らしていた。当の本人達は普通に同期である。道生は「お疲れ様です」と頭を下げると、瀬尾はニコッと笑った。 「瀬尾、お疲れ。何か用かい?」 「ああ、お疲れ。この前、君たちが大口契約を取って来てくれた大手企業、豆を俺が仕入れたとこのブランドを選んでくれたみたいで、メーカーが大喜びしてくれてさ、お礼が言いたくて呼び止めたんだ」  ただ仕事の話をしているだけなのだが、二人が会話をしていることでどこからともなく艶っぽい溜息が聞こえてくる。道生はこの場所に自分はふさわしくないのではないかと思い始めて来ていた。 「ああ、あれは、春日くんのおかげだよ」  急に名前を呼ばれて緊張する道生。瀬尾が視線を道生へ移して、三笠へ戻る。 「彼が?」 「うん。新商品の説明をね、春日君に頼んだんだけど、その時、先方さんがね、春日君に、『君ならどれを選ぶか』って言われた時に、君の仕入れた豆を選んだんだよ。もちろん、瀬尾のとは知らずにね」 「へぇ」と、また視線を道生に戻した。 「春日って、コーヒーの味わかるの?」 「いえ!そんなわかるって程のものでもないんですけど、うちの製品って、社内の自販機で売られてたり、給湯室に置いてあったりするじゃないですか。営業してるのに、飲んだこと無いのはまずいと思って、機会があれば色々飲み比べてたんです。で、一番好きな香りと味だったのが、瀬尾さんのだったみたいです」  偶然ですみません、と謝る道生に、瀬尾は興味ありげに笑って言った。 「君、面白いな。今、狙ってるメーカーがいてさ、今度買い付けにいくんだけど、よかったら飲んでみてくれる?」 「え、俺でいいんですか?」 「君に飲んで貰いたいんだよ」 「是非!ありがとうございます。また声かけてください!」 「ああ。二人とも、またよろしくな」 「こちらこそ」  立ち去り方もスマートな瀬尾に、奇跡的にその場に居合わせた女性たちはうっとりしていた。残された道生と三笠は、営業課オフィスに向けて歩き出した。 「いいなぁ、僕も瀬尾の新作飲んでみたかったな」 「主任も飲めるんじゃないんですか?」 「瀬尾は、完璧に商品を完成させるまでは、企画課以外には情報を出さないんだよ。リークされるのを防ぐためにね。だから、君はとても気に入られたってことだよ。」  道生は、三笠にそう言われて、素直に嬉しく思った。  二人がオフィスのドアを開けると、林の姿があった。林は「おー」と二人に手を挙げた。 「先輩!退院したんですか?」 「おかえり林君。腰はもう大丈夫なのかい?」 「おかげさまで、完全復帰です。三笠主任、俺がいない間、大変な迷惑を掛けてしまってすみませんでした」  林は三笠に深々と頭を下げた。三笠は「そんな迷惑でもなかったよ」と笑う。 「林君がいない間、君のお得意様には春日君が仕事を引き継いでくれてたんだよ。彼にもお礼を言っておいてね」 「そうですか。春日も、ありがとうな」 「そんな!俺なんて、主任のサポートがなければ全然でしたよ」 「僕はただアドバイスをしただけだよ。林君が休んでた間に、春日君はすごく成長したから、楽しみにしておくといいよ」  三笠に褒められて、道生は嬉しそうに笑った。 「へぇ、それは楽しみです。またよろしくな、春日」 「はい。よろしくお願いします林先輩」  林が復帰したということは、三笠とのコンビは解消される。そう思うと道生は、それが少し寂しかった。 「春日君!」    とある昼下がり、声のした方向を向くと、榎木が走って来ていた。ダークグレーのスーツに大きいカバンを持っていて、どこかへ出かける途中のようだ。一緒に挨拶回りをしていた林に、「主任のお友達です」と説明した。榎木は二人に近づき、林に挨拶をした。 「お久しぶりです。榎木さん」 道生はにっこりとほほ笑む。 「久しぶり、仕事中、呼び止めて悪いな」 「いえ。それより、俺に何か用ですか?」 「ああ、耕平、元気?」 「元気だと思いますけど・・・」 「そっか、あれからもずっと、仕事忙しそうでさ、前みたいに会えなくて、後輩の君に頼むのもどうかとおもうんだけど、あいつに会ったら、たまには連絡寄越せって言っておいてくれないか?」 「いいですよ」 「そうか!ありがとう。」    それだけ言って、嬉しそうにニコッと笑って、急いで行ってしまった。向こうで同業者らしき男が立っていて、榎木が何やら謝っている。そのまま二人は走り去ってしまった。急ぎの用事を差し置いても、そのことを道生に伝えたかったのだと思うと、榎木もまた別の意味で三笠の事が気になっているのだと道生は思った。純粋に。友達として。それが三笠を傷つけているのだとも知らずに。  道生はジリジリする胸の痛みに気づかない振りをして、林と次の営業先へと急いだ。  二人が挨拶回りを終え、帰ってきたのは終業時間10分前。日が暮れるのも早くなり、窓の外はすっかり夜だ。二人がオフィスに帰ると、瀬尾が営業課に顔を出していた。ワイワイとみんなで話している。が、頭一つ飛び出している瀬尾は、とても目立つ。瀬尾が道生の顔をみつけるなり、話を終わらせて、近づいて来た。 「お帰り春日。この前言ってた豆、手に入ったんだけど、これから時間ある?」 「お疲れ様です瀬尾さん。もちろんです!」 「よかった。じゃあ終わったら企画課に来て」 「わかりました!」  瀬尾はすれ違い際に林を見る。目を逸らさない林の目をじっと見つめながら目を細め口角を上げた。 「林もお疲れ様」 「瀬尾さんも、お疲れ様です。」  そのまま営業課から出て行く瀬尾の背中を見る林。入れ替わりで三笠が入ってきた。 「お疲れ様です三笠主任!」  真っ先に挨拶をしたのは道生だ。後に続いて林も挨拶をする。 「お疲れ様、さっき瀬尾とすれ違ったけど、もしかしてこの前言ってたやつかい?」 「そうです」 「いいなぁ、感想、後で聞かせてね」 「はい」  そういって嬉々として帰り支度を始める道生。その姿を見ながら林が三笠に尋ねた。   「瀬尾さん、新作の情報とか、絶対出さないですよね」 「だよね。春日君って純粋で素直だから、瀬尾も気に入ったんじゃないかな?」  いいよね~と三笠も自分のデスクに移動をして、帰り支度を始めた。林は、さっきの瀬尾の笑顔を思い出していた。 「林君、何をボーっとしてるんだい?今日はノー残業DAYだよ」 課長にそう言われて林は急いで帰り支度を始めた。  終業時間になり、道生は企画室へと急いだ。ノックをして扉を開けると豆の香りが鼻腔をくすぐる。とてもいい香りだ。 「いらっしゃい。今入れるからそこ座って」 「お招きありがとうございます!他の社員さんはもう帰ったんですか?」 「今日はノー残業DAYだからね」  その辺、この会社の良い所だよね~と話す瀬尾に相槌を打ちながら促されたカウンター席に座る道生。  企画課には、簡易的なカウンターキッチンがあって、そこで仕入れた豆をすぐに試飲できるように色々な器具がそろっている。企画課の前を通るといつも良い匂いがすると有名なのだ。  上着を脱いで腕まくりしている瀬尾の姿が、とても様になっていて、かっこいいなと思う。こんなカフェの店員がいたら、女子の入店率が爆上がりだろう。そんなことを考えながら瀬尾の手元を見ていた。 「手で挽くのかと思ってました」  機械を使って豆を挽く瀬尾をみてそう言うと、瀬尾は、「うちのコーヒーグラインダーは優秀だからね」と笑う。嗅いでみて、と挽いたコーヒーを道生に宛がうと、カウンター席から身を乗り出して香りを嗅ぐ。とてもいい匂いで、身体の力が抜けそうだ。 「めちゃくちゃ良い匂いですね」 「だろ?エクアドルの、小さな農園の豆なんだけど、やっと頭を縦にふってくれてさ、俺嬉しくて」さっき日本に着いたんだ と話す瀬尾は、さっきまでの大人の佇まいが嘘のような、少年のように笑っていた。この仕事が本当に好きなんだなと、道生は思った。瀬尾が丁寧にドリップをすると、何とも言えない、コーヒーの良い匂いが鼻腔をくすぐった。道生は目を瞑って匂いを堪能する。どうぞ、とコーヒーを差し出され、もう一度匂いを嗅ぐ。ずっと嗅いでたいのを我慢してコーヒーに口を付けた。 「おいしい」 「それはよかった」  瀬尾も、自分のカップを鼻に近づけ、匂いを嗅ぐ。そして口を付けた。 「すごく飲みやすいです」 「春日は、あまりコーヒーに詳しくないと言っていたから、合うと思ったんだよね」 「俺、こんなにコーヒーを美味しいと思って飲んだことないです。瀬尾さん、すごいですね!こんなにおいしいコーヒーが入れられるなんて」  裏表なく、純粋にそう言う道生を見て、瀬尾は、「本当に君はおもしろいね」と笑う。 「今まで春日に合うコーヒーに出会ってなかっただけじゃないか?」 「そうでしょうか。あ、そういえば、三笠主任が瀬尾さんのコーヒー飲みたいって言ってましたよ」  せっかくいい気分でいたのに、急に三笠の名前を出されて、面白くない瀬尾。しかし何故今三笠の名前を出すのか。 「そうなんだ。今度は三笠も呼んできなよ」 「いいんですか?きっと喜びます!」 「君、三笠が喜んだらうれしい?」 「はい」 「何で?」 何で――――そう返されるとは思わなかった道生は言葉に詰まった。  俺は三笠主任が喜んだら嬉しいのか…考え込む道生に、瀬尾は、目を細め口角を上げる。 「次に呼ぶ時の為にライン、交換しよ」 「はい」  道生は瀬尾の笑顔につられて微笑む。三笠の事を考えるのを中断し、スマホを取り出した。
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