開店時間

4/4
前へ
/8ページ
次へ
「フロア長……もしかして、知ってました?」  お客様が帰られた後のこと。  ふと、山崎は石橋に訊ねた。 「……ん? 何の話だ?」 「今日、あのおじいちゃんが来ること……」 「ああ。あのお客様、ね……」  石橋はニヤリと含み笑いを浮かべた。 「昨日の閉店間際に一度来たんだよ。『去年、ロレックス勧めてくれた店員はいるか』ってな。最初、俺も何の話かわからんかったが、よく聞いてみたら、店員は女性だって言うし。となればお前しかいないと思って」  確かに。  今はもう一名、女性店員がいるが。  去年の今頃、時計・ブランドコーナーの女性店員といえば山崎のみ。 「本日休みの旨と、『明日出勤』を伝えたんだよ。そしたら……」  本当に今日、来店してくださった、というわけだ。 「まさか本当に、それも朝イチで来るとは思わなかったけどなぁ……」  時計というのは嗜好品だ。  スマホが普及しているこの時代、時間の確認もスマホで済んでしまう為、時計など持たない人も大勢いる。腕時計など、今やなくても困らない。  また。ネットショッピングの普及により、声を掛ける接客を嫌がる人も多い。  そんな中、担当者指名でリピートしてくれるお客様がいる。  給料が安くても、昇給がほとんどなくとも。やりがいのある仕事。  それが--。  山崎が販売を続けている理由--。  だが。  売上を立てられなければ。いずれ居場所をなくしてしまう。 「な?……俺の言った通りになっただろう?」  何故か得意げな石橋。 「予算までまだあと70万ありますけどね……」 「ロレックス売って、ブルガリ売ればノルマ達成!」 「そんな簡単に高額商品ポンポン売れませんよ……」 「じゃあ、ロレックス売って国産時計10本も売ればなんとかなるだろ」 「……ロレックスは外れないんですね……」  石橋の言う通り、簡単に売上を立てることが出来るのなら。  ノルマのプレッシャーに負けた山崎の胃がキリキリと痛むことはない。 「だーいじょーぶ。お前なら出来るって」  ぽんぽん、と石橋は山崎の頭を撫でた。  その瞬間、火が吹いたかのように山崎の顔が赤らむ。 「な?」  石橋にとっては部下を褒めているつもりなのだろう。  が。長女として育ち、甘え下手の山崎にとって、それは慣れない行為で。 「~~~~っ!」  思わず減らず口を叩いてしまう。 「フロア長……それ、セクハラですよ。受け手によっては」  山崎の頭に触れていた石橋の手がぱっと離れた。 「悪りぃ、悪りぃ。そういうつもりはなかった……」 「わかってますよ。セクハラだとは思ってないのでご安心を」  信頼関係にある上司と部下--。  口は悪いが親分肌の石橋。揉め事が起きても面倒臭がりはするが決して部下を見捨てない。  山崎にとっても信頼出来る上司であり、『セクハラ』だの、『パワハラ』だの、冗談で言うことはあれど、本気で思ったことなど、ない。 『今日の納品来ましたァ。台車三台あります。担当者は取りに来て』  左耳にはめたイヤホンから商品管理の木下の声が響く。 「さて、冗談はここまでにして。今日も一日、頑張りますか」  まだ一日は始まったばかり。  山崎はバックルームへ納品された商品を受け取りに向かった。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加