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「フロア長……もしかして、知ってました?」
お客様が帰られた後のこと。
ふと、山崎は石橋に訊ねた。
「……ん? 何の話だ?」
「今日、あのおじいちゃんが来ること……」
「ああ。あのお客様、ね……」
石橋はニヤリと含み笑いを浮かべた。
「昨日の閉店間際に一度来たんだよ。『去年、ロレックス勧めてくれた店員はいるか』ってな。最初、俺も何の話かわからんかったが、よく聞いてみたら、店員は女性だって言うし。となればお前しかいないと思って」
確かに。
今はもう一名、女性店員がいるが。
去年の今頃、時計・ブランドコーナーの女性店員といえば山崎のみ。
「本日休みの旨と、『明日出勤』を伝えたんだよ。そしたら……」
本当に今日、来店してくださった、というわけだ。
「まさか本当に、それも朝イチで来るとは思わなかったけどなぁ……」
時計というのは嗜好品だ。
スマホが普及しているこの時代、時間の確認もスマホで済んでしまう為、時計など持たない人も大勢いる。腕時計など、今やなくても困らない。
また。ネットショッピングの普及により、声を掛ける接客を嫌がる人も多い。
そんな中、担当者指名でリピートしてくれるお客様がいる。
給料が安くても、昇給がほとんどなくとも。やりがいのある仕事。
それが--。
山崎が販売を続けている理由--。
だが。
売上を立てられなければ。いずれ居場所をなくしてしまう。
「な?……俺の言った通りになっただろう?」
何故か得意げな石橋。
「予算までまだあと70万ありますけどね……」
「ロレックス売って、ブルガリ売ればノルマ達成!」
「そんな簡単に高額商品ポンポン売れませんよ……」
「じゃあ、ロレックス売って国産時計10本も売ればなんとかなるだろ」
「……ロレックスは外れないんですね……」
石橋の言う通り、簡単に売上を立てることが出来るのなら。
ノルマのプレッシャーに負けた山崎の胃がキリキリと痛むことはない。
「だーいじょーぶ。お前なら出来るって」
ぽんぽん、と石橋は山崎の頭を撫でた。
その瞬間、火が吹いたかのように山崎の顔が赤らむ。
「な?」
石橋にとっては部下を褒めているつもりなのだろう。
が。長女として育ち、甘え下手の山崎にとって、それは慣れない行為で。
「~~~~っ!」
思わず減らず口を叩いてしまう。
「フロア長……それ、セクハラですよ。受け手によっては」
山崎の頭に触れていた石橋の手がぱっと離れた。
「悪りぃ、悪りぃ。そういうつもりはなかった……」
「わかってますよ。セクハラだとは思ってないのでご安心を」
信頼関係にある上司と部下--。
口は悪いが親分肌の石橋。揉め事が起きても面倒臭がりはするが決して部下を見捨てない。
山崎にとっても信頼出来る上司であり、『セクハラ』だの、『パワハラ』だの、冗談で言うことはあれど、本気で思ったことなど、ない。
『今日の納品来ましたァ。台車三台あります。担当者は取りに来て』
左耳にはめたイヤホンから商品管理の木下の声が響く。
「さて、冗談はここまでにして。今日も一日、頑張りますか」
まだ一日は始まったばかり。
山崎はバックルームへ納品された商品を受け取りに向かった。
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