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「……ザキ! おい、山崎! 聞いてんのかっ!?」
その声に遠くまで飛んでいた山崎の意識が引き戻される。
手首切り落とし事件から一週間後の週末。
その後、事件に進展はなく、テレビのワイドショーの話題は、とある芸能人の不倫ニュースで持ちきりだ。
一方、山崎は--。
「何ですか、もうっ! せっかく今日の晩ごはん、何にしようか考えてたのに」
興味があるのは安定の『食べ物』について。『仕事』も『事件』も、『食欲』の二の次、三の次。『芸能人の不倫』など興味のカケラもない。
今一番の興味は先日、インターネットで申し込んだふるさと納税の返礼品『A5ランクの黒毛和牛 すき焼きセット』だ。
石橋は意外とばかりに目を丸くし、ふむ、と右手で顎をさすった。
「何を作ろうか、か? 山崎にしては高尚な考え事だな」
「何を食べようか、です!」
鼻息荒く、山崎は胸を張って答える。
「……作る気はないんだな」
その様子を見て、石橋はがっくりと項垂れた。
「食べる専門なんで」
山崎にとって、料理をすることは家事の中では嫌いな方ではない。休みの日ともなれば人並みに料理はするが、仕事で帰るのが遅くなった日にわざわざ時間をかけて作る気は毛頭ない。
「それはともかく! 仕事しろよ……」
「してますよ~、欠品チェック!」
右手にはバーコードリーダーを持ち、欠品している商品の桁のJANコードを次から次へと読み込んでいる。
頭の中の八割は『食べ物』で占めているが、残り二割は思考を切り離し、『仕事』をしているのだ、それなりに。
「……うん、まぁ、仕事してるならいい。それより、山崎。お前今日、遅番だったよな?」
「はい……?」
石橋に問われ、山崎は思わず、カウンター内に貼られているシフト表に目を向ける。
シフトを間違えたのかと思ったのだが。
シフト表の山崎の本日のシフトはB。間違いなく、今日は遅番の日だ。
「遅番、ですね……」
「……んじゃ、送ってってやる」
その言葉に、山崎は目が点になる。
脳に伝わり、意味を理解するのに十秒以上はかかった。
「……ええーっ!」
思わず、大きな声を出してしまい、山崎は慌てて両の手で自分の口をふさいだ。
「……どういう風の吹き回しですか?」
声を潜めて、石橋に改めて確認する。
電車通勤の山崎に対し、石橋は自家用車での通勤だ。
山崎の通勤時間は電車で30分、ドア to ドアで一時間はかかる。山崎の家はマンションとは名ばかりの古びた三階建ての小さな鉄筋コンクリート造りの部屋で、最寄り駅から歩いて15分はかかる。車で送ってもらえるのは正直ありがたい。
「フロア長が夕飯をご馳走してくれるなんて! もとい、送ってくれるなんて!」
「……誰もメシを奢るとは言ってないんだが。お前、タカる気満々だなぁ……」
石橋は目を細めて、明らかに非難していたが、その視線をふと宙に浮かせた。
「……まぁ、物騒な事件が起きてるからな。可愛い部下が巻き込まれないように配慮するのも責任者の役目、ってとこだな」
普段言われ慣れない『可愛い』の言葉に、思わず顔が赤らむ。頭に血が昇り、顔だけが妙に熱い。
山崎は石橋にバレないよう、くるりと背を向け、手扇子で仰いで顔の火照りを冷ました。
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