前日譚 戦神の宴

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 昔、彼女の兄であり王位継承者でもあったテウィルを殺したシルークは、罪を償うためにフィラ・フィアを助け、彼女の旅仲間になることを決めた。普段は物静かで冷たい雰囲気を見に纏っている彼だが、その実、彼は彼女に最も忠実だった。そんな彼に、彼女が淡い恋心を抱き始めるようになったのはいつの頃からだろうか。そして使命のことしか考えない彼女は、その淡い感情を何というのか、わからない。  ただ、失いたくない人だった。最後まで走りぬけたいと、心の底で思った人だった。  その人物が、死ぬ。自らの身を犠牲にし、彼女をしっかりと守り切って。 『守れ、た……』  合成音声のような声。  かつては美しかったという声を奪われた彼は、特殊な魔法でしか喋れない。  槍に貫かれた腹には大穴が開き、そこから血と臓物がこぼれ出している。新しい血の臭いが彼女の鼻をつく。それは彼女の最愛の人の血の臭いだ。  槍という貫通武器がフィラ・フィアまで届かなかったのは、シルークがその身を挺して彼女を庇い、彼の有する死神蝶の協力も相まって、僅かに軌道が変わったからだ。彼と死神蝶の助けがなければ、この傷を受けていたのはフィラ・フィアだった。  彼女を庇って、彼女の最愛の人は死ぬ。  フィラ・フィアの顔に絶望が広がる。  戦神が、嗤っていた。 「なんだ、もうお終いなのか? 人間というのはかくも脆い。だから言ったであろう? 人間が神に挑むなど、愚行にすぎるとなッ!」  もうフィラ・フィアの周囲で虹色の鎖は輝かない。集中が途切れたせいで、魔法もまた一から組み直しだ。そして今の彼女にはもう、魔法を一から組み直すほどの気力など存在しない。  フィラ・フィアは神々に対する切り札なのかもしれないけれど。  逆に言えば、彼女さえ無力化すれば、神々は圧倒的優位に立てる。  神に敵う人間は確かに存在するが、彼らはとても希少なのだ。  動きを止めたフィラ・フィアを、エルステッドが叱咤する。 「諦めるなフィラ・フィアッ! まだ相手は残っているぞ? お前の使命はどうした? お前は背負っているのだろう!」  何万という、命を。  それはフィラ・フィアにもわかってはいるけれど、何故、再び舞うために身体は動かないのか。  脳裏に繰り返されるのは、彼女を庇ってシルークが倒れた、その瞬間だけ。  そしてその記憶と共のに思い出したのは、旅の途中で失った三人の仲間たちの、散り様。その最後の言葉。  失うのには慣れたはずなのに、どうして身体は動かないのか。  どうして、失った記憶ばかりが頭の中で繰り返しループするのか……。 「しっかりしろって言ってんだろ! お前がそこで腑抜けになってどうする!? これまでの俺たちの旅は何だったんだ? お前が、お前が、動かなくちゃ、さぁ……!」  エルステッドの叫びと、 「フィラ・フィア殿、いい加減になさらぬかッ!」  ヴィンセントの鋭い声。  それらを受けても、フィラ・フィアは呆けたように固まったままで。  そしてそんな彼女を見て、  戦神の赤い瞳が鋭く光る。 「動かぬのか人の子よ。仲間があれほど叫んでおるというのに? 脆いなぁ。仲間一人が死んだからと言って、そうまで魂が抜かれるか」  戦神は溜め息をついた。 「つまらぬ、全くもってつまらぬ。もっと抗ってくれればこちらもそちらを認め、折れてやらんこともないと思うておったのに、実につまらぬ。興が削げたわ。人間など、所詮はその程度か」  彼は、 「そんな人間など、」  宣言する。 「消えてしまえ」 「やめろこの腐りきった戦神ッ!」  エルステッドの悲鳴のような叫び。  その言葉とともに、  投げられた長槍。  今度は庇ってくれる相手もいない。エルステッドとヴィンセントからでは距離があり過ぎて、彼女のもとにはたどり着けない。  衝撃。 「あ……ッ」  彼女の腹を、長槍が貫く。ごぽり、口から溢れた血液、腹に感じた焼けつくような熱さ。  どこかでガラスが砕け散るような音を幻聴として聞いた。それは希望の失われる音。彼女の手にした錫杖が地に落ち、しゃらん、と音を立てた。  彼女しか、彼女しか、暗黒時代を救える人物はいなかったのに。  彼女が暗黒時代に光をもたらすと、そう、予言されていたのに。  倒れるフィラ・フィア。スローモーションに再生されたビデオの如く、ゆっくりと。鈍い音を立てて崩れ落ちた彼女の下、血飛沫が撥ねる。 「フィラ・フィア……?」  信じられないものでも見るようなエルステッドの音。  彼は大慌てで彼女に駆け寄り、その身体を抱き起こした。  大きな長槍に腹を刺し貫かれた彼女。その傷はどう見ても致命傷だった。 「嘘、だろ。予言は、さぁ。成就するはず、だったんじゃ、ないの、か」  こんな結末で終わっていいはずがない。虚ろな声で呟き、エルステッドは腕に抱えたフィラ・フィアを激しく揺する。 「目を覚ませフィラ・フィア、死ぬなフィラ・フィアッ! お前はこんなところで終わっていい人間じゃないだろう、まだ封じられていない神々もいるんだぞ!? こんなところで、こんなところでッ! 終わるような『希望の子』だったのかよお前は!? お前が死んだら、残された民はどうするというんだッ!」  必死で彼は叫んだけれど。  溢れ出る血は止まらなくて。失われゆく命は戻らなくて。  フィラ・フィアは苦痛の中で、笑った。 「ごめん、ね……」 「謝るなッ! 謝る暇があるくらいならば生きろ、生きて民の希望と――」 「無理だよ」  エルステッドの言葉を、無情にもフィラ・フィアは否定する。  その口から血が溢れ出た。エルステッドの手に付いたそれは、否が応でも彼に現実を理解させる。  フィラ・フィアは、言うのだ。  その瞳から涙が溢れ、零れ、彼女の流した血と混ざり合ってエルステッドの手を濡らした。 「わたし、さ……無理だった、の。誰かの死、耐えられると……思ってた、のに。無理だった、の。動けなく……なっちゃった、の。わたしに、は……無理だった、の、よ……」  死んじゃうのかな、死にたくないなと彼女は泣き笑いのような表情を浮かべた。 「終わるわけに、は……いかないの、に。わたし、に、は……使命が、あるの、に……」  彼女は震えた。しかし運命は無情にも、彼女から命を奪っていく。  どんどんと体温の失われていくその身体を、エルステッドはただ抱きしめていることしかできなくて。  そしてフィラ・フィアの赤の瞳から、最後の光が失われた。 「わた、し、は……」  言いかけた言葉は、途中で途切れ。  誰もその先を聞くことはできぬまま、彼女の機関は、止まった。  希望の子、フィラ・フィア・カルディアルト、戦神の神殿にて死す。  誰が、誰がそんな結末を予想しただろうか。確かに戦神は強いけれど、残された皆で協力し合えば倒せない相手ではないと、そう思っていた。戦いの果て、仲間の誰かが欠けることはあっても、要石たるフィラ・フィアが死ぬなど、誰も予想だにしていなかった。  エルステッドはフィラ・フィアの死を知りつつも、それでも彼女を揺すって必死で声を掛けていた。  縋るような声音。 「なぁ……フィラ・フィア。生きているんだろう? まだ死んじゃあいないよな? だってお前はあれほど、民の為になりたいって、世界を救うんだって、強い責任感で言っていたじゃないか。こんなところでお前は死んだりはしない。なぁ、そうだろ? なぁ!!」
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