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けれど。
いくら身体を揺すってみても、いくら言葉を尽くして呼びかけてみても、その身体は冷たいままで。その瞼はもう、開くこともなくて。
「なぁ、起きろよ、なぁ!」
「やめろエルステッド」
それでも尚諦めきれないエルステッドに、ヴィンセントが鋭い声を投げた。
「その子をそこに置け。彼女はもう死んでいるんだ。希望は失われた。いくら否定しようとしたって、それが現実だ。前を見ろ『自在の魔神』」
彼女はあえて、彼を二つ名で呼んだ。
しかしその後に飛び出た言葉は、ある意味予想できたとはいえ、とんでもないものだった。
「彼女の仇は私が取る。お前はそこで見ていろ、魔神」
言って彼女は愛用しているレイピアを、宙に浮く男に向けた。
男は哄笑し続けていた。彼は嗤っていた。世界を、人間を、哀れにも散ったフィラ・フィアの生き様を。愚かだと、間抜けだと、嘲笑っていた。
エルステッドは見る。普段は冷静なヴィンセントの瞳に、瞋恚(しんい)のほむらが燃え上がっているのを。
常に誇り高くあった彼女は、主の誇りが穢されることを許せない。
「……戦神よ。フィラ・フィアは、我が主は精一杯生きたぞ」
静かな言葉に込められた憤怒。
「彼女はな、優しかったんだ。優しかったけれど、使命があったから戦わざるを得なかった。彼女は生まれた時点で過酷な運命に足を踏み入れることが決まっていた。ああ、確かに彼女は最後、仲間の死の衝撃で動けなくなっていたかもしれないが、それを愚かと言うか、間抜けと言うか? これまでもずっとずっと死の悲しみに耐え続けていた彼女の堤防が、ついに決壊した、それだけだ。その間が悪かっただけだ。それを貴様は嘲笑うか?」
一歩、踏み出す。金属製の靴が硬質な音を立てた。戦神はそんな彼女を面白がるように眺めていた。
ヴィンセントは、言う。怒りを込めて、そして一抹の悔しさ、悲しみを込めて。
「私はそんな貴様を許せない。人間が足掻く様が面白いか? 争う人間が面白いか?」
止めなければならない、とエルステッドは思った。三人がかりでも倒せなかった相手なのだ。そして今は切り札である少女も失われた。彼女一人で勝てるわけがないとそう思ったから、声を掛けようとした刹那。
ヴィンセントがエルステッドを振り返った。その紅の瞳に込められた意志のあまりの強さに、エルステッドは震えてしまった。彼女は死ぬ覚悟で、それでも自分なりのけじめをつけようとして戦神に挑もうとしている。その誇り高き意志を、誰が邪魔できようか?
頷き、エルステッドは引き下がる。フィラ・フィアの遺体を腕に抱き、せめて自分だけでも生き残って、少女の遺体を父王に渡そうと、そう、小さく決意した。
ヴィンセントは戦神に言う。
「ならば私は貴様に挑もう。たとえこの命散り果てても、主君を守れなかった戦士など生きる価値なし、それは恥。ここで死ぬのも一興だ。その道連れに貴様を選んでも、文句はないだろう?」
彼女は、叫んだ。
「戦神ゼウデラッ! 『天駆ける剣神』ヴィンセント、ここに在り。私の相手をしてもらおうかッ!」
「……いいだろう、人の子よ。我に人間とは何たるか、示してみせよ」
その声と同時に、ヴィンセントは、
疾走。一気に相手の真下まで距離を詰める。跳躍。優れた身体能力を活かし、相手と同じ高さまで飛びあがる。しかし相手は空中に浮いているが、彼女にはそんな能力などない。飛び上がり様に突きだされたレイピアはあっさりとかわされ、彼女は地上に落ちていく。そんな彼女を追撃せんと、純白の獅子が迫る。
「くっそ、見てられないッ! ヴィンセント、これでも使ってろーッ! 長くは保たないぜ、早めに決着よろしくなッ!」
叫び、エルステッドは宙で右手を振った。するとそこから現れたのは、乳白色に輝く足場。しかしそれは不安定で、今にも消えてしまいそうに揺らぐ。ヴィンセントはその足場に反射的に乗ったが、すぐにそこから飛び降りた。何でだよ、とエルステッドが叫ぶと、「真剣勝負に手助けなど無用」と返された。
それにな、と彼女は言う。
「お前には生きていてもらいたいのだ、エルステッド。お前が私を手助けしたら、お前まで標的として認識されるぞ? それでも生き残れる自信はあるのか?」
う、とエルステッドは言葉を詰まらせた。
彼の生み出した乳白色の足場は、霧となって消えていく。
ヴィンセントは凛として立ち、ただ相手を睨むだけ。
「……私はな、私の流儀に、則るだけだ。そこにお前まで巻き込むわけにはいかないんだよ、エルステッド」
その言葉と同時に、疾走、跳躍。相手と同じ土俵に立とうというのか、戦神は先ほどよりも低い位置に浮いている。
「なんだ、その位置ならば好都合だなッ!」
にやり、笑ってレイピアを突き出すヴィンセント。かわされる。落下するヴィンセント。迫る白獅子。けれどすぐに態勢を立て直し、今度は獅子を攻撃する。レイピアが獅子の右腕に突き刺さった。獅子の苦痛の咆哮。すぐに剣を抜き相手に向き直る。「邪魔者など要らない。正々堂々戦え戦神」そう、ヴィンセントは笑う。
が、彼女に笑う余裕など、なかったのだ。
彼女は獅子などに気を取られず、ずっと戦神を見ていなければならなかったのだ。生まれた一瞬の隙。それが見逃されるわけもなく。
「正々堂々など、我の辞書には存在しない」
その言葉を捨て台詞にして。
迫った長槍は、今度は腹ではなくヴィンセントの首に突き刺さり、彼女の生首を宙にはね上げた。首の断面から間欠泉のように吹きあがった血液。誇り高き戦士である彼女も、戦神の手にかかれば一瞬で無残な姿になった。
エルステッドはその様を、ずっと見ていた。目を見開いて、じっと見ていた。まるで全てを記憶しようとでもするかのように。彼女の生首は口元に笑みを湛えたままで、そんなエルステッドの足元に転がった。
「いくら強い意志をもっていたとて、所詮はその程度。やはり人間など脆い、脆すぎるわ」
戦神はエルステッドを見る。その口元には面白がるような笑み。
「……して、最後の人間。そなたは我に挑むか?」
「否」
きっぱりと、エルステッドは首を振った。
「俺は帰らなければならない。だからお前に挑む暇などない」
「……賢明だな、人間。その賢明さに免じて見逃してやろう。今日は楽しむことができたわけだし、これ以上惨劇を繰り広げる必要もない」
頷き、戦神は高く宙に浮かぶ。完全に興味が失せたようだ。
「ならば疾く失せよ人間。もう我にだって用はない」
「……ああ」
エルステッドはフィラ・フィアの遺体を抱いた。本当は他の遺体も回収したかったけれど、そんな余裕など与えてもらえそうにない。だから、せめて彼女だけは。
エルステッドは物言わぬ骸と化した“希望”を抱いて、神殿を去った。
その背は、完全に敗北者のそれだった。
◇
「……ということが、ございました」
カルジアの、王宮にて。
一人生き残ったエルステッドは、アノス王に事の顛末を話し終えた。
そうか、と王は溜め息をつく。その理知的な青の瞳の奥に閃いた感情は、落胆か絶望か。
彼は疲れたような声音で言った。
「……だが、よくやったぞエルステッド。よく生き残り、全てを伝えてくれた。お前には褒賞を与えねば……」
「とんでもございません。俺は姫君を守れなかったのです。そんな俺に褒賞など」
「いいから受け取るが良い」
問答無用、と言わんばかりの口調。
「そなたたちは英雄だ。たとえ使命を完遂できなくとも、一部の神々は封じられたことだしな。英雄には褒賞を与えねば……。いずれ吟遊詩人に歌でも作らせて、悲劇として歌わせてみようか」
そうでもしないと、その旅に意味を見いだせなくなるだろう、と彼は言う。
「中途半端に終わってしまった旅を、美談として飾るには悲劇の英雄になってもらった方が都合が良いのだ。その方が民の落胆も少なくて済むのだ。ああ、これが私のできるせいぜいのことだよ。だから文句など言わないで受け取るんだ」
「……承知、いたしました」
頷き、
「もう帰れ」
というアノス王の指示に従い、エルステッドは玉座の間を出る。
玉座の間を出て、彼は無力感に唇を噛み締めた。
守り切れなかった王女、断たれた希望。そして死んでいった仲間たち。彼だけが、「フィラ・フィアの騎士」を自称していた彼だけが、生き残った。何故か生き残ってしまった。
守るべき主を失った。そんな騎士は、今後、どうやって生きていけばいいのか。
「……語る、か」
やがて彼はそう呟いた。
「歌ではきっと脚色される。でも、俺は知っている、俺だけは知っている! あのときあの神殿で何があったか、そして俺たち七人の旅物語を。死んでいった仲間たちの、散り様を……!」
語り継ぐこと。本当の真実を語り継ぐこと。それが彼に出来る、残されたこと。
フィラ・フィアの葬儀は国葬になるらしい。エルステッドは口にこそしていないが、彼女はエルステッドの初恋の人だった。彼はその真っ直ぐな心に惹かれたのだ。
だが、その彼女ももういない。
「……さようなら、俺の『フィラちゃん』」
幼い頃の呼び名を呟いて、エルステッドはその場を去った。
◇
古の昔、英雄があったよ
荒ぶる神々封ずるために、彼女ら七人、旅立った
しかし運命の悪戯か?
悲しみの物語しか、そこにはなく
旅の果てで希望の子は死に、残ったのは、主無き騎士のみ
騎士はその後に英雄となったが、やがていずこかへと姿を消した
その後の行方は、誰も知らない
その後の彼を、誰も見ていない
――それは、遠い昔の物語――。
【前日譚 戦神の宴 完】
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