#5 - 正しい選択

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#5 - 正しい選択

 1 「あれは、天使……ですか?」  地獄のサウスLA上空に突如として顕現し、その影で街を覆ってしまう程の巨体を有した光輝くそれは、まさに『天使』と呼称すべき存在だった。  巨躯を包む白鳥の翼は三対六枚、顔や手足は翼に隠されて見えず、白き衣を纏う胴体には文字の様な紋様を浮かべ、輝く炎を全身に迸らせる、煌々たる佇まいで空に浮かんでいる。  私はその姿に既視感を覚え、そしてそれがいつか目にした絵画や聖堂の壁画に描かれていた『熾天使(セラフィム)』によく似ていることを思い出した。  旧約聖書や新約聖書にも登場し、重要な役割を担うとされるセラフィムは天使の中でも最上位とされる存在で、その身は神への愛と情熱で文字通り燃えているのだという。北欧観光の際に予備知識として学んだものが、まさかこの様な形で役に立つとは思わなんだ。  しかしそのことを知っていてよかったかというと、決してそうとは限らない。  何故なら知識とは、身に降りかかる危機をいち早く知る力である反面、これから対峙しなくてはならないものがどれだけ厄介なのかを必然的に理解し、それに巻き込まれる己の不運を自覚して悲嘆に暮れる原因となるものだからだ。 「六枚の翼でその身を包み、全身には炎を纏う――外見は伝承の熾天使の姿そのものだな、興味深い」 「熾天使って確か、とても強い力を持っているんじゃ……」 「多神教において『四大天使』と称される熾天使は、神と同じ信仰の対象とされている。これが一神教になると天使の位が下から二番目ぐらいまで落ちるのだが、いずれも強大な力を持っていることは間違いない。力を有していたが故に神に叛逆し、堕天して地獄の王になったかの大天使ルシファーも、元は熾天使だったという説がある」  事態の深刻さは私の予想を遥かに超えていた。  神にも匹敵する力を持っている存在、そんなものに人間が立ち向かえるはずがない。  素人観点だがもし熾天使がその力を我々人間に揮ったとすれば、おそらく身に纏う炎で全てを焼き払い、この街は一瞬で焦土と化すだろう。おまけにサウスLAの空を覆ってしまうあの巨体、人と比べればまさに象と蟻ぐらいの差がある。  常識的に考えてそんな相手に挑もうと思うことはないはずだ。下級悪魔を相手取るのとはわけが違う。  もはや外宇宙から侵略してきたエイリアンの巨大宇宙船に全人類総出で迎え撃つSF映画レベルのスケールであり、一人で立ち向かった瞬間に聖なる炎に包まれて塵も残さず消滅される未来が容易に想像できる。  結論から言って、現実から逃避するしか道がない。帰りたい。 ――しかし、よくよく考えてみると、そもそもあれに立ち向かう必要があるのだろうか。  先程、マルコムはこの光景を「最悪の未来」だと言った。故にあの天使が危険なものなのだと咄嗟に判断してしまったが、本来天使とは神の使いであり悪魔の敵、言い換えれば人間の味方のはずだ。  それにこの街に天使が現れること自体が「最悪」ということは、恐らく熾天使がこちら側に現れてしまった時点で、全てが手遅れなのだろう。しかしそれは裏を返せば、直接対峙する必要はないかもしれないということだ。 「マルコムさん、あの天使は人の力でどうこう出来るものですか?」 「いや、あれはただの人間がどうこう出来るものではないよ。あれに挑むということは大嵐や津波に立ち向かうことと同義だ。生身の人間なら瞬きの間に黒焦げだろう」 「では、あれをこちら側に呼ばない方法は?」 「当然あるとも。その方法をシンプルに答えてしまうなら、『魔人の目的』を止めればいいだけだ」 「……犯人の目的は、亡くなった誰かの魂を転生術で呼び戻すことなのでは?」 「あれをこちら側に呼ぶことを望んだのは、おそらく憑りついたものの方だ。魔人本人の願いではない。本来の願いは死者の魂をこちら側に呼び戻すことだったのかもしれないが、その本来の願いの為に作った転生陣を利用し、あれをこちら側に転生させるつもりなのだろう。はてさて、元の人格はどれほど残っていることやら」  やはり最悪の未来を回避する方法は、あの天使を直接どうにかすることではなく天使の召喚を止めることの様だ。  となれば私がすべきことは一つ、「魔人の目的」を阻止することだ。  犯人が用意した転生陣は本来の目的から逸し、あの天使をこちら側に転生させる為に利用されるらしいので、論理的に考えて陣を壊すか転生術を止めさえすれば、この最悪の未来は回避出来るはず。  ただ、少々気になることがある。 「でもそれって、犯人に憑りついた悪魔が天使の召喚を願ったということですか? なんか、物凄く違和感があるんですけど……」 「色々と訂正したい点はあるが……そうだな、とりあえず君が誤解している重要な点について一つ指摘しておこう」 「誤解? なんですか?」 「あれは天使ではない。悪魔だ」 「は?」 「我々が倒すべき存在だよ」    マルコムの指摘内容が予想外過ぎて、思わず素っ頓狂な声が出てしまった。  先程からマルコムが「あれ」と呼称する存在はゲヘナのサウスLA上空を漂っている熾天使のはずだが、彼曰くあれは人を貶め誑かす劣悪な存在であり、天使ではなくむしろその真逆の存在――悪魔なのだという。  私はその事実を聞いて、思わず鏡から目を背けたくなった。一刻も早くこの場から逃げ出したい。  あれが天使ではなく悪魔だったという真実、そしてあの様な巨大な悪魔がこの街に現れる可能性があるという事実には心底驚愕したが、それ以上にあれ程の規模の超常存在すら我々で対処しなければならないことの方が受け入れ難いのである。一体どれだけの犠牲を払わなければならないのか、想像がつかないからだ。  余りにも衝撃的過ぎて、動揺が脂汗となって額に滲み出るのを感じる。  おまけに膝が微笑みはじめた。他ならないマルコムの言葉ではあるのだが、正直その真実を受け入れられない。  安易に受け入れてしまえば、私の軟な精神はその強烈な負荷に耐えられないだろう。 「いやいやいや……どう見てもあれは天使、ですよね?」 「ゲヘナは人類にとって最悪の未来を映すが、そこに現れるものは実像ではなく虚像だ。レンズや鏡に屈折した光の像が実際のそれよりも大きな像となって現れる様に、ゲヘナに映るそれは実体ではなく、その性質を像として顕したものだ。実在しているが、全てが真実ではない」 「あれが悪魔なんて、そんな……」 「ジョン。この街の名前は?」 「……LA?」 「略さず言うと?」 「Lost Angels(天使を失った街)」 「『名は体を表す』だ。神が見捨てたこの街に純粋な天使が現れることは、まずありえない。悪魔を屈服させるはずの能天使達ですら、この街の浄化を諦めた程だからな」 「天使が諦めた……何故ですか?」 「この街に地獄があるからだ。そもそも、天使がいる街に我々『エクスシア・エージェント』は不要だ。尤も仮に本物の天使が現れたとしたら、その時は覚悟しておいた方がいい」  私は思わず頭を抱えた。  困ったことに、彼の話の半分以上が私には理解できないのである。  とりあえずこの街に地獄ゲヘナがある限り天使は現れない、故にあれは悪魔ということらしい。その真意を問う為の知識が私に無い以上、もはやそういう事なのだと受け入れるほかないのだ。思慮する余地もない。  とはいえ、マルコムがあれについて「人間がどうこう出来るものではない」と説明していたことをはっきりと覚えている。つまり私が心配すべきことは強大な悪魔の倒し方ではなく、魔人の目的を止める手段についてということだ。  それが分かると、僅かばかりだが気が楽になった。 「よくわかりませんが、分かりました。とにかく、あの巨大な悪魔が召喚される前に転生術を止めればいいんですよね」 「その通りだ。魔人は今夜にでも転生術を発動させるつもりだろう。君の相棒の命は、君の手に掛かっている」 「彼女は……ミシェルはまだ無事と考えていいんですよね?」 「無論だ。君の相棒は儀式が成立するその瞬間まで、五体満足でいる必要がある。あれを見たまえ」  マルコムは鏡の中のゲヘナを指差し、極楽鳥の視点をある一点に向けた。  そこは六つの魔力点の対角線がぶつかる場所、黒い光が集まっている魔法陣の中心だった。  目を凝らすとそこには少し背の高いビルが聳え立ち、そしてなんと、その屋上には立ち尽くすミシェルの姿があった。その表情は魂の抜け殻の如く酷く虚ろで、光が失せた両の瞳で空に浮かぶ巨大な悪魔をじっと見つめるその様は、まさに異様の一言に尽きる。  だがこのゲヘナに映るものが虚像だというなら、あれは彼女本人ではなく、この未来が実現した時の彼女の末路、その光景なのだろう。  マルコムの言う通りミシェルはまだ生きてはいるが、止めなければ彼女は地獄に導かれてしまうということを示しているのだ。 「転生術が成功してしまったら、彼女はその犠牲となる……ということですね。しかし、なぜ彼女は無事なんですか? 攫った理由も不明です。何か犯人に理由があるということですか?」 「ジョン。転生術の仕組みを思い出してみたまえ」 「……まさか、犯人が彼女を攫った理由って、転生術の生贄にする為ですか!? そんな……攫われたのはついさっきの話ですよ? あれだけ計画的な犯行を行っておいて、最後の重要な生贄はその場で用意するなんて……それに、確かこの魔人はホムンクルスを作成できるはず。なら生贄を自分で作成出来るのでは?」 「魔造生命体には人間の魂が無い。故に生贄には出来ないのだよ。どこからか調達する必要があった。かの魔人は魔力点の作成の際、触媒の為に『火刑』を再現したが、これは大衆に注目させるという意図も孕んでいる。注目される場所には当然多くの人々が野次馬の如く集るので、恐らくその中から適任となる人間一人を攫う計画だったはずだ。しかし君達FBIの優秀な情報操作のおかげで情報の拡散は免れ、人々は魔力点に近寄らなかった。これには魔人も焦ったことだろう。それでも、全く人が集まらなかった訳ではない」  連邦捜査局の情報操作が為されている場所、それは一般人の立ち寄りを一切禁じた場所であり、つまり『事件現場』だ。  そこに立ち寄る者など限られている。 「捜査官……調査に来た俺達を狙ったということですか」 「その中でもある程度の魔力を有し、しかし君の様に反撃の手段を持つ者ではない、無力な者を選んだのだ。つまり君の相棒は生贄にピッタリだったということだ」 「……犯人は現場に待ち伏せていた様ですが、魔力点は六つ。我々がそのどれに向かうか犯人には分からないはずです」 「君の相棒が現場に到着してから君が到着するまでに、多少の時間があったはずだ。魔力点に目的の者が近付けば魔人の感知力で察知することが出来るし、魔力点間の移動も容易い。君にも覚えがあるだろう?」  確かに魔人が有する魔力感知や霊的感知の能力を使えば、特定の場所に集まるそれらを感知することが可能だ。  移動に関しては、何らかの能力か魔術で可能なことは幾分か察することが出来る。ミシェルが消えた時にもそれを使ったのだろう。でなければ煙の様に消えたことの説明がつかない。  生贄を確保する為に待ち伏せしていたことも間違いない。私達は主任サイモンからの調査依頼という犯人の釣り餌に誘われ、見事それに引っ掛かったということだ。  全く悪気がないとはいえ、やはり主任を信用してはならないことを改めて実感した。  自然と溜息を吐いてしまうが、今憂慮すべきは犯人の目的を阻止すること、そしてミシェルを救うことだ。 「マルコムさん。転生術を阻止する方法を教えてください」 「先程も伝えたが、方法はいたってシンプルだ。魔人を止めればいい」 「それは……」 「魔力点を破壊せずとも、魔術や魔法で転生術の発動を阻害せずとも、魔人をどうにかすればいい。熾烈弾の補充は自由にしてくれたまえ。あとは――」 「待ってください。魔人を止めるということは、つまりそういうこと……ですよね? ですが魔人も元は人間です。ならば……ならば彼等も、俺が守るべき人達です」  彼の言う通り、魔人を止めれば全てが解決するのだろう。  だが、その「魔人を止める」とは、何もさせないということだ。  六感を奪い、言葉を奪い、四肢の自由を奪い、体機能を奪い、魔人の力を使わせないということ。  全てを支配し、全てを奪うということなのだ。  その『命』さえも――。
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