#1 ‐ 王の啓示

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#1 ‐ 王の啓示

#1 ‐ 王の啓示  1  気が付くと私は、滅亡した世界を彷徨っていた。  眼前にはリトルボーイかファットマンでも落として全てを掃いた後の様な砂色と灰色の肥沃な大地が広がっている。  水源や動植物は一切見当たらず、およそ生物が生息するには困難だろうと一目で分かる光景である。  砂塵の大地と伸びる地平線、そして肉の様に赤い空以外に何も無かったとすれば――方法や経緯についての言及はさておき――きっとペインテッド・デザートやデスバレーに連れて来られたと思ったかもしれない。  しかし、中腹から鯖折りの如く屈折して大地に横たわるLAの超高層ビルセントラル・オブザーバーを目にした瞬間、間違いなく世界は滅んでいると確信したのだ。  それも終わりを迎えてしばらく経っているのか、見渡せば、ジェンガタワーの様に崩れ落ちたビル群や骨組みだけとなった車両の残骸には灰色の砂塵が積もりに積もっていることが分かる。  およそ人間から文明と呼べるものまで、全てが世界から消滅してしまっているのだろう。その理由が如何なるものかは分からないが、それすら忘却して生き続けている自分の存在に私は疑問を抱いた。  記憶が正しければ、私の名前はジョン・E(エルバ)・オルブライト。  FBIのLA支部に所属する捜査官であり、昨夜はこれまでの事件の報告書作りに勤しんだ後、深夜に帰宅して死んだように眠った。そこまでは覚えている。  ふと自分の身なりを確認すると、裸の上から全身を覆い隠す様に薄汚れた真珠色のローブを羽織っているだけだった。  地面を踏む素足はこの砂地を長らく歩き続けた後の様で所々皮が削れた跡があり、体は乾燥と渇きによって干物の様に筋張っている。空腹感もあるが動けない程ではない。  これらを認識した私は自分が覚えている最後の姿とは「かけ離れている」という印象を抱き、同時に状況を理解した。  これは夢だ。  恐らく人類が滅んでしまった世界のLAを彷徨う、という夢なのだろう。  明晰夢を見るとは珍しい。最近色々と忙しいこともありストレスが溜まっている所為かもしれない。  どうせ夢だと分かる夢なら、もっと愉快な夢でも見たいものだ。何が悲しくて、渇きと飢えに堪えながら荒廃した世界を巡礼者の如く歩かなければならないのか。  ドラマや映画で見る世紀末は大変愉快だが、例え夢であってもそれを体験するのはまっぴら御免である。  ともあれ夢から醒めるには起きなければいけないわけで、しかし夢の中の自分がそれを決められるはずもない。  とにかく今はこの渇きと飢えを満たせるものを探さねば――そう思い至った直後、そいつは蜃気楼の様に突然現れた。 「腹を満たしたいか」  そいつは血の様に赤いスーツを纏う壮年の男だった。  酷くしわがれた極低音の声色で私に問いかけ、値踏みする様な眼差しでこちらを見ている。  小綺麗で瀟洒というおよそこの世界観に合っていない装いに加え、何も無いところから突然現れたことを鑑みるに人の姿を取ってはいるものの、恐らく人ではない何かなのだろう。  初対面で失礼だとは思うが、どことなく胡散臭さがにじみ出ている。  そして人の姿を取るが人では無いもの――つまり人を欺くものなど相場が決まっている。  悪魔や魔物の類だ。 「腹を満たしたいか」  男は問いかけを繰り返す。  確かに腹は減っているが、もし目の前の男が悪魔だとするなら言葉は慎重に選ばねばならない。  悪魔は言質から人心を掌握する。彼等とのやり取りにおいて、不用心な返答は命取りであることを私は知っているからだ。  だが、その事を夢の中の私は知らない。 ――満たしたい。  夢の中の私は私の意に反し、慎重に言葉を選ぶ間も無く掠れた喉から欲望を絞り出していた。  そもそも夢という概念には様々な意味や解釈があるが、一説によれば記憶や願望を視覚像によって再現したものだという。  つまり私は映画館のシートに座って偉大なるスピルバーグのSF大作でも見ている様なものであり、そこで私が何を感じ何を思い何を望んだとしても、それが目の前の光景物語に反映されることはないのだ。  よって夢の中の私は私の意識に関係なく勝手に動くのだ。筋書に従って与えられた役を演じる物語の登場人物の如く。 「石を拾え」  私の返答に対し男はそう言い放ち、私の足元を指差す。  その指先に視線を向けると何の変哲もない石ころが一つ、砂の地に転がっていた。男の狙いが全く分からず困惑したが、それも介さず私はすぐさま石を手に取った。  どうやら基本的に私はこの男に従順の様だ。というより、状況からして従うほかないと言った方が正しいだろうか。少なくとも何かを疑っている節はない。  これに男は気を良くしたのか、口元を歪めるとさらに続けた。 「それを麺麭(パン)に変えよ。そして食せ。さすれば貴方の腹は満たされる」  私は呆気に取られていた。  この男は私をイエスか何かだとでも思っているのだろうか。あるいは魔術師(メイガス)、はたまた錬金術師(アルケミスト)か、いずれにしてもそんなことはできないし、その様なことを強要されることは想定外だった。  そしてこれ以上この男の言うことに従うことは得策ではない。  なぜならこの状況は『荒野の誘惑』という寓話とそっくりだからだ。  私は悪魔に誘惑されているのだ。  なぜこの様な夢を見ているのかは分からないが、そんな夢が決して良いもののはずがない。やはり精神的疲労が溜まっているのだろう。今度メンタルクリニックにでも行ってみようか。  そんな思考を抱きながらどうにか夢の中の私に伝えられないかと思い、気持ちだけは全力で警報を発し始めるが、それすらも無視する夢の中の私は男に向かって掠れた声で言った。  そしてそれは心底驚くものだった。 ――どうせならチーズバーガーにしてもいいか?  私はもちろん、この返答には男も目を見開いた。  私はこんなにも茶目っ気に溢れた男だったのかと自分の新しい一面を発見した驚きよりも、疑うことを知らず欲望に忠実な私がこれ程愚かであるということに絶望し、実はこれは私ではないのではないかと切に願いたくなった。  ふと男の顔を見れば、口を強く噤んで妙な形に歪めている。間違いない、あれは笑いを堪えているときの顔だ。  もはや悪魔に誘惑されていることよりも、悪魔に笑われていることの方が私的にショックが大きい。  内心で私が頭を抱えていると、男は口に含んでいた笑いを逃がすように一つ咳払いしてからさらに問いかけた。 「――では、喉を潤したいか」 ――潤したい。  即答だった。微塵の躊躇もない。これまた男は笑いが込み上げてきたのか、今度は口元を手で覆い顔を背けた。  居たたまれなさで思わず男に謝りたくなったが、そんな私の意を決して汲まない夢の中の私は片手を広げて男に指示を乞う。  すると僅かに頭を振って気を取り直した男はどこからともなく黄金色の西洋杯を取り出し、それをこちらに差し出して言った。 「ここに貴方の血を注ぎ、これを葡萄酒(ワイン)に変えよ。そして飲み干せ。さすれば貴方の喉は潤う」  男が示したそれは、これまた有名過ぎる『最後の晩餐』に由来するものだった。  当然これも私には出来ないし、また先程と同じでかなり分かりやすい誘惑だが、もはやこれに対し私がどう思おうと関係ない。問題は欲望に忠実でありそれが出来ると思っている夢の中の私がどうするかだ。  ここまで来たら見守るだけである。  夢の中の私は杯を受け取ると少し首を傾げながら、もう片方の手に握った石ころとそれを見比べる。  そしてまたしても欲望に従い、私を唖然とさせる言葉を放った。 ――チーズバーガーにはコーラと相場が決まっている。コーラでもいいか?  男はついに我慢出来なくなったのか、盛大に哄笑した。  気持ちは分かる。私も同じ立場ならこの男同様、腹を抱えて笑っただろう。それに私は漸く夢の中の私の心情を理解した。  この荒んだ世界を歩む彼は困窮者であり、目の前に現れた男は願いを叶えてくれそうな何かだ。  もはや命以外に失うものがない。それ故に『出来るものなら』と望薄ではあるものの、あわよくばと自らの欲望を叶えようとしているのかもしれない。だからこそ彼は命知らずなほどに大胆であり、愚直なほどに欲望に忠実なのだ。  無論、悪魔の誘惑に従って失うものが無いということはあり得ない。彼等は人の名誉や尊厳、正気や魂の安寧といった形なきものを奪うと謂われている。  きっと夢の中の私は、この男に何もかも奪われてしまうのだろう。  しかもそれがチーズバーガーセットと引き換えとは、なんと滑稽でなんと割に合わない取引なのだろうか。  男はひとしきり笑った後、まるで子供の様な満面の笑みで標榜した。 「素晴らしい! それでこそ! それでこそ、我等の王となる者だ!」
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