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《高校生編》13.今や叶わぬ願い
その翌日の放課後、智納が勉強会を開いてくれた。俺が二日休んでいた分の授業を、ノートを見ながらレクチャーしてくれたのである。お礼に何か奢ると言ったら、「彼氏の部活上がりを待つから学校から離れられない為、学食にしてくれ」と言われたので、場所は学食である。
何かと忘れがちだけど、智納の彼氏はこの学校の三年生だ。磯部と沖田のは知らん。他校なんじゃね?
その磯部と沖田も何故か、俺たちと一緒の卓にいる。特に勉強をしている様ではないが、漢詩の教科書を二人で声を揃えて読み上げて笑っている。お前らホント仲いいな。それに二人の囀るような朗読は、胸に心地よい。だから智納だけでなく二人の前にも、ジュースと菓子パンをお供えしておいた。
「うう……二日分つらい」
「でもコピーとっても頭に入らないでしょ? 手で書くのが一番よ。世界史と国語のノートは貸してもいいから、英語と数学は絶対写そうね」
「ふぁぃ」
智納は成績がいい。元々頭もいいんだろうが、かなり真面目な努力家だ。
「智納はなんかなりたいものでもあるの?」
その様が結構ストイックに感じられるので、高い山を目指しているのかなと思った。
「私ね、安定した高収入の職について親を楽させたいの。その為に何になればいいのかは、今絞って行っている所」
智納の答えに、俺は虚を衝かれた。俺が投げかけた何気ない問いに、彼女がこうして重たい答えを返してきたのは初めてのような気がする。息を詰めて彼女を見上げれば、彼女はちょっと困ったように目尻を下げて微笑んでいた。俺はそれに、ぎこちなく笑みを返す。
そういえば、智納が助けたいというご両親が、アルファなのかベータなのか、はたまたオメガなのかすら知らない。
「――応援してる」
情けないことに、俺にはそんな在り来たりな事しか言えなかった。
――俺は智納のように真面目に、将来を考えたことがない。
そう言えば俺は、オメガになる前、自分はアルファだと信じていた頃は、何になりたかったんだっけ。色々な将来を思い描いていた気がするけれど。
そのうち磯部と沖田が帰り、智納も彼氏が迎えに来た。彼氏は、智納が高校入学とほぼ同時に付き合い始めた彼氏だ。「数打たないと当たらない」なんて言っていた智納だけど、このまま数なんて打たずに済めばいいのになと、案外仲の良さそうな二人を見送りながら思う。
借りたノートや自分の教科書をディパックに仕舞い、俺も学食を出る。本格的な夏を目前に、夕暮れの訪れは遅い。やっと朱に染まりはじめた空を背に、俺は格技場を目指す。
特に約束はしていないし、メッセージを送ってもいないけど、平に会いたかった。
いるかな――もう帰ったかな。
期待を込めて角を曲がれば、ちょうど、剣道部の集団が目の前を横切って行く所だった。
「わ」
中々背の高い集団である。平の身長も割と高いのに、その平が一番高いんじゃないし。
「お、鯨井」
「仁科、鯨井だぞ~」
最後尾辺りを歩いていた平には、きっと俺が見えなかったのだろう。俺は勝手知ったる態度で――何と言ってもつい五日程前までは俺自身が属していた集団なのだ――部員たちの間に分け入ると、するりと平の隣に並んだ。
「てるちゃん!」
リュックを背負い竹刀袋を肩に掛けた平が、俺を見て頬を上気させる。相変わらず、胸のすくようなかわいい笑顔だ。
「あー、カップルカップル」
「じゃな~。俺らが離れるまでイチャイチャすんなよ~」
「また明日なー」
口々に別れを言い置いて去って行く部員たちに手を振って、俺たちはしばしその場に佇んだ。
「帰ってなかったんだ。どこにいたの?」
「学食で智納に休んでた間の授業教えてもらってたー。磯部と沖田が歌歌ってて楽しかった-」
「わー、そうなんだ。良かったねえ。お勉強進んだ?」
「……それはそこそこ」
前を行く剣道部員のざわめきが大分小さくなったのを見計らって、俺たちは並んで歩き出した。
「腕どお?」
平の腕からは包帯は消えたものの、絆創膏はまだ外せない。
「大分良くなって来てるよ」
けれど小手を打たれるのはまだ駄目だから、平はずっと一人稽古のはずだ。足さばきと素振りを色々な種類で繰り返しているんだろう。基礎中の基礎だからとても大切な訓練だけど、早く互角稽古を楽しみたいだろうな。
「平来年全国目指す?」
「うん。だから今も気を抜かずに稽古してるよ。目指せ素振り毎日千回!」
「いや、それはやるだろ」
「ははは、あの猛兄を見てたらそりゃそう言うだろうけどねえ」
苦笑いする平を見上げつつ、俺はぼんやりと別のことを考えていた。
平が二年生になって全国に挑戦している頃、俺は三年生だ。その時俺は何を目指しているんだろう――っていうのは、まるで他人事みたいな言い草で無責任だよな。未来の俺がどうしてるかは、今の俺に懸かってるのにさぁ。
「どうしたのてるちゃん。なんか元気ないね?」
「腹減っただけ」
「じゃ、帰ろ帰ろ」
平は俺の手を取ると、ぐいぐい引っ張っていく。つられて小走りになりながら、俺はその背を追った。
「でも一緒に行けるのはバス停までね。俺は今日、父さんのとこ行くから」
「あ、そうなんだ」
俺たちの家から高校まではバスで一本。高校前で降りずにそのまま乗っていれば駅に着く。その最寄り駅から三駅ほど行った街で、平のお父さんはレストランを経営している。多分美也おばさんも合流して、二人でお父さんのお店で夕飯にするんだろう。
「竹刀持って帰ってやろうか?」
俺は平に手を伸ばした。平はこれから混んだ電車に乗るのだ。お店から帰る時は美也おばさんの車とはいえ、それまでが邪魔だろう。
平は小首を傾げてから頷いた。
「バス停まではね」
バス停までぶらぶらと他愛ない話を続けながら歩いた俺たちは、そこで別れた。平の竹刀を肩に、俺はいつも通りのバス停。平は横断歩道を渡って、向かいのバス停である。そのうちやって来たバスに平の姿が遮られ、駅に向かう人々で混み合ったバス内部では移動も出来ないのか、平はもう一度姿をみせることもなく。俺は走り去るバスを無言で見送ったのだった。
自分もバスに乗り込み、いつものバス停で降りた俺は、平の竹刀を肩に気持ちがうずくのを感じていた。
帰宅すると、家には母しかいなかった。父も兄も、いつもどおりに遅いのだろう。
加えて今日は平もおらず――俺は着替えて庭に出ると、平の竹刀を袋から出した。
――剣道がしたい。
結局俺って、そればっかりだ。第二性発覚前に考えていた将来だって? そんなの決まってた。俺は舟木剣道場の先生たちみたいになりたかったんだ。俺が先生たちに教わったみたいに、子どもに剣道を教えてみたかったんだ。
――今や叶わぬ願いだけどさ。
俺は竹刀の柄頭を左手で握った。ずっしりとした重み。竹刀をこの角度から眺めるのは、本当に久しぶりだ。握れば振りたくなるのは分かっていたので、中三で部活を引退して以来、頑なに触れては来なかったのだ。
今、その禁を破ってしまったのは、兄も平もいないというちょっとした偶然と、やるせなさの持って行き場が重なったからだった。
胸を高鳴らせながらそっと右手を添えれば、自然と身体が動いていた。足を動かしながら、同時に振りかぶる。
ヒュッと、風を切る音が響いた。
久しぶりに振った竹刀は重く、体幹がよろめく。
だが風を切る剣先に、俺は堪えようのない満足感を覚えていた。
二度三度、そしてとめどなく竹刀を降り続ける俺を、母がリビングから窓越しに眺めていた。心配そうにしていることには気付いていたが、つとめて無視した。
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