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《高校生編》14.大学行くんだ?
「智納ー、ノートありがとな」
昨日のうちにきっちりと写し終えたノートを、朝一番に智納に返す。
まだ朝も早いこの時間は、教室にひとが少なく、沖田や磯部の姿もない。
「はーい。分からないところなかった?」
いつもの俺ならその問いを面倒くさがって「なかった」と即答しただろう。けれど今日は素直に、分からなかった所をお伺いを立てた。
「ここはこの事件の前に……」
教科書とノートを照らし合わせながら、落ち着いた声でレクチャーしてくれる智納。ふんふん聞いていると確かにその通りで、昨夜何故自分でこの見解に至れなかったのかを恥じる。
「ありがと、智納。すごいな」
素直に礼を言うと、智納は眼鏡の奥で笑ってくれた。
「困ったらまたどうぞ」
「助かる。……でも、自分の勉強の邪魔にならないか?」
「教えるの、知識を整理できていいのよ」
そう言われてほっとした。
「そっか。じゃあまた頼むな」
また素直に答えると、智納は軽く目を瞠って俺を見返した。
「どうしたの? 妙に積極的じゃない」
率直な問いを返されて、俺は苦笑しか出ない。
「うー……俺も大学受験を控えて、馬鹿のままでは……!」
ところが智納は、俺の言葉にまたしても目を瞠ったのである。
「大学行くんだ?」
「え? 行くだろ?」
そりゃ将来の展望なんて何もないけど。だからこそ行くだろ?
「――つがいを決めたし、大学行かずにそのまま結婚するのかと思ってた」
智納の言葉に、今度は俺が瞠目する番だった。
「……考えたこともなかった……」
「まあ、昨日の今日って感じだものね。でも大事な事だから、ちゃんと仁科君と話し合った方が良いんじゃない?」
「う、うん……」
確かに平と一緒に生きていくと決めたのだから、お互いがどのような人生設計を描いているのかは重要な問題だ。平は多分美也おばさんの会社を継ぐんだろうけど。そうなると平の将来は安泰なんだろうけど、俺はその安泰さに寄っかかって大学も行かずに子ども産んで育てるの? ……ていうか、平がもしそれを望めば、俺は三年後や四年後には子どもを抱いているわけで――?
え、待って。そんなのは全然想像が追いつかない。そんな覚悟ない。
一気に顔色を悪くした俺に気付いたのか、智納は慰めるような吐息をついた。
「つがいが早くに決まるのはうらやましくもあるけれど、問題もあるわね」
「で、でも智納だってつがい早く欲しいって言ってただろ?」
「欲しいわよ。とても自由になれるもの。オメガじゃ挑戦出来ない業種にだって飛び込んでいける――でも正直パートナーとの兼ね合いは難しい問題だし、何より子どもなんて今は考えられないわよねえ」
智納の苦笑いに、俺は深く頷いた。
平からどんな答えをもたらされるかが怖くて、俺は平に何も問わないまま一ヶ月ほどを過ごした。
その間授業は真面目に受けて、予習復習もしっかりやるようにした。大学の学部やその先の就職先を調べたりして、自分は何になりたいかを思い描いてみたりもした。
その結果、俺ってこんなにつまんない奴だったんだなあって落ち込むばかりだよ……やりたい仕事とか興味のあることとか、何にもないんだ。
「てるちゃん今日はさあ、お弁当にしたよ」
平がそう言って、いつもは持っていない大きなトートバッグを掲げて見せたのは、良く晴れた朝のことだった。カレンダーは七月になり、梅雨も終盤。風に混じる湿度に、本格的な夏の到来を感じる。
つい昨日期末が終わり、その出来の納得のいかなさに少しうなだれていた朝だった。そりゃ結果はまだ返って来ていないけど、ある程度は予測が付くじゃん?
「弁当?」
「ほら、サンドイッチが食べたいって言ってたじゃん? 天気予報見て、晴れそうだから今日にした」
ああ、そう言えば結構前にそんな事も言っていたような?
平はバッグの中に敷物と水筒まで律儀に揃えていた。サンドイッチが入っているっぽい大きなタッパの上に載せられているホイル包みは、もしかしてアップルパイか?
「遠足か?」
「あはは。まあ楽しみにしててよ。だから今日は、格技場の裏に集合ね」
「はいよ」
四限目終了と同時に教室を出て、格技場の裏に向かう。
格技場自体が他の施設からは少し離れた所にあるため、人通りもなく静かだ。裏手には木立が迫っているものの、格技場周囲には砂利が敷かれていて居心地は悪くない。陰だからか、すうっと通り過ぎる風はからりと乾いて爽やかだった。
しばらく一人で砂利の上に座り込んでいると、やがて平がやって来た。
「あー。何処にでも座り込まない」
せっかく敷物持ってきたのに、と平に、まるで小学生みたいなお小言を食らう。
「腹減った」
四時間目にはあのアップルパイが頭をちらついて仕方がなかったんだ。
「はいはい。今広げますよ」
風にばたばたする敷物を俺が整えている間に、平はトートバッグからタッパ二つと水筒を取り出す。
俺は靴を脱いで敷物に上がり込んだ。
「おお」
蓋を開けたタッパの中身は、オーソドックスな卵サンドとハムレタスサンド――これについてはまあ、ちょっと身構えた――。それから鶏を蒸したっぽいのが挟まってるサンドイッチ。これ初めてみるかも。そしてスタッフドエッグに茹でたブロッコリーとミニトマト。で、ホイルに包まれてるのはやっぱりアップルパイだったっぽい。すっかりアップルパイ気分だったから、これでミートパイとか言われたら腹が納得出来なそうだったので嬉しい。
「いただきます――お? カレー味じゃん」
俺はまずスタッフドエッグをひと囓りして、歓声を上げた。いつもマヨネーズ味なのに。
「昼結構カレー食べてるじゃん? だから」
「へええ。ありがとう」
スタッフドエッグを食べてしまうと、次には大好物卵サンドに手を伸ばす。お願いした通り、マスタード多めにしてくれていて、しかも絶妙な塩加減だ。
「おいしい!」
率直に褒めると、平はそーだろそーだろと言わんばかりにへらっと笑っている。
「しかし良く作ったもんだな? 何時起きしたんだよ?」
「昨日のうちに作っといたのもあるから、そんなに手間かかってないよ。俺もさー、テストが終わったんでストレス発散したかった訳」
料理でストレスが発散出来るってのも面白い話だと思うけど、好きってそういうことなんだろう。俺だって竹刀振りたいや。
今回初めて作ったという鶏の蒸したのっぽい奴は、オレンジ風味なのとなんか分からんけどハーブが効いてるっぽくて旨かった。ちょこっと挟んであるオレンジの輪切りがヤバ美味。パンもこれだけなんか歯ごたえのある奴使ってる。
「これ旨い」
「だよね。俺も美味しそうだと思ったから作ってみた。……うん。上手く出来てんじゃん」
平の口ぶりからすると、これは親父さんのレシピから抜いてきたやつっぽいな。たまにそういう事をする。
「次アップルパイ」
「なんで。レタスサンド食べなよ」
「えー、だってお前がなんか変なこと言ってたから食べづらい」
「変じゃない。かわいいって言っただけじゃん」
「それが変だろ。なんだよ”うさぎみたいにひたむきでかわいい”って」
レタスサンドを取った俺は、大きな口でがぶっと豪快に食べて見せた。これなら小動物には見えまい。
最後にアップルパイを頂いてその甘さにうっとりしながら、平の仕込んで来ていたアイスティーを貰う。なんかすっとする茶葉なのか、口の中から甘さを打ち消していく。
これは合うのかもしれんが甘みカムバック……、とひっそり残念に思いながら茶を飲み干すと、平がぐいっと手を伸ばしてきた。
「んん?」
腰を抱き寄せられて、平の胡座の上に強引に座らせられる。そして腕がしっかりと巻き付けられ、俺は平の胸に閉じ込められた。
「なん、」
誰も見てないけども、ここ学校だぞ?
俺の抵抗は、ぴたりと密着してきた平の耳そばでの囁きに封じられる。
「てるちゃんさあ、なんか悩み事あるでしょ」
「へ」
「なんか期末前からずっと変じゃない? お母さんも心配してたよ」
……これは年貢の納め時か。
将来のことを、ちゃんと平と話し合う時期に来たのかもしれない。
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