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あれからよし子はクビを言い渡されるかと思ったが、どうやら反対に先輩の自宅謹慎がいい渡された。どうやら声を上げてくれた同僚は、よし子が日頃セクハラパワハラを受けているところを動画に残しておいてくれたらしい。
「ごめんね。何かに使えればと思って撮ってたんだけど、その……、渡す勇気がなくて……」
上司も、動かぬ証拠があるとすれば認めるしかない。いつもは頼りないと思っていたのに、すぐさまコピーを取って社長に報告した。それを聞いた社長も、わざわざよし子に頭を下げに来てくれ、何かしらの対処をすると約束してくれた。
そんなこんなで、よし子はようやく家に帰って来た。思ったより気疲れしたらしく、ソファに身を投げ出す。途中で寄ったコンビニで弁当を買ったので、夕飯の支度をする手間はない。しかし、今は少し眠たい気分だった。
「チョコ」
よし子が呼べば、すぐにそばに寄って来た。しっぽを振る姿が可愛らしい。まるで褒められるとわかっているかのようだった。
「あんたのおかげで勇気が出たんだよ。ありがとう」
『ワンッ!』
チョコは元気よく返事をした。もしかしたら、チョコは人間の言葉がわかる賢い犬なのかもしれない。それから、辛いという心も。だからこそいくら拒絶をしても、よし子の側に居てくれたのかもしれない。
こんなことを考えるのは、親バカというものなのだろうか。しかしこの場合、親ではなく飼い主バカなのだろうか、なんてどうでもいいことを考える。
「私、チョコのこと、大好きだよ」
それにチョコは返事をせず、首を傾げた。それが何ともあざとくて可愛い。
本当に、撫でられないのが残念だった。せっかくチョコと信頼関係を築けたというのに。
よし子は段々と睡魔に勝てなくなり、瞼のくっつく時間が長くなっていく。そして気が付いたら、外はもう薄明かりがさしていた。朝になっていると気が付くのに、少し時間が掛かった。
「あぁ、あのまま寝ちゃったんだ……」
よし子はリビングの時計を見ると、六時半を示していた。いつも起きるより一時間早い。
「シャワー……、浴びなきゃ……」
そう呟いて、よし子はソファから足を下ろした。すると視線が下になる。
「あれ?」
いつもならまとわりついてくるチョコが、視界に居なかった。
「チョコ?」
寝室を見てみるが、そこにもいない。それほど広くもない部屋を探してみるが、どこにもその小さな姿はなかった。そこでようやくよし子は、直感的に感じる。
「ああ、いっちゃったんだ」
よし子はシャワーを浴びると、いつも起きる時間になった。しかし、アラームも聞こえなければ、それを知らせてくれる愛しい存在はない。
お腹は空いているけれど、何も食べる気は起きない。しかし何か口にしたいというような、よくわからない気分だった。昨日買ったコンビニ弁当を冷蔵庫に突っ込むと、粉末スープを溶かすためのお湯を沸かす。
「そういえば、最初に知らせてくれた音も、やかんの音だったな」
その時はまだ犬が怖いというのが先走り、酷いことをしてしまった。まだそれは、ちゃんと口に出して謝ってはいない。
「そういえば、可愛いって言ってあげたっけ?」
思っていただけで、口に出してはいない気がする。少なくとも、よし子の記憶には無かった。
「もっと、言ってあげればよかった……」
一週間にも満たない、本当に短い時間だった。それなのに、思い出は沢山ある。
チョコの、元気のいい返事が好きだった。
チョコの、小首をかしげる仕草が可愛くて好きだった。
チョコの、一生懸命音や危険を知らせてくれている仕事熱心な所が好きだった。
チョコは、よし子に勇気をくれた。
「早すぎるよ……」
いつか別れが来るとはわかってはいた。しかし、こんなに短いとは思わなかったのだ。わかっていたら、もっとチョコを構っていたに違いない。
瞳に滲む涙を、乱暴にふき取った。よし子はその場にうずくまりたいのを堪える。拭っても拭っても、涙は止まらなかった。誰も聞いていないのに、嗚咽を漏らさぬように唇を強くかむ。
するとちょうど、お湯が沸いた。
よし子はスープが入ったマグを手に、ベランダへ向かった。すると朝日が、建物の間から差し込んでくる。暖かい液体を口に含むと、少し落ち着いたような気がした。
「また、会えたらいいな……」
きっと叶わぬ願いだということは分かっていた。しかし、口に出さずにはいられない。
きっと今も、誰かのために音を知らせている小さな聴導犬に想いを馳せながら。
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