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慣れた様に電車を乗り継ぎ、数日ぶりに会社のビルの前に立った。五階建てのそれは壁にツタが絡まり、年季の古さを感じさせる。
よし子はエレベーターで三階へと向かうと、事務の扉を開けた。すると、よし子より先に来た同僚たちや上司が、一斉にこちらを見る。しかし、誰一人声をかける者はいなかった。それにまた、心が折れそうになる。
しかしすぐ足元を見れば、チョコが胸を張って立っていた。
「おはようございます」
よし子はその場で、大き目にそう言った。すると何人かは軽く会釈を返してくれたりする。
「ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした。今日から仕事に復帰いたします。それに際しまして、皆さんに報告することがあります」
そこまで言うと、少し興味が出たのかざわざわとした空気が流れた。聞かせたい当の本人がいないが、逆に好都合かもしれないとも思う。
「私は医者から、心因性の難聴と診断されました。喋れはしますけど、まったく耳が聞こえません。皆さんにはご迷惑をかけると思いますが、どうぞよろしくお願いします」
よし子は言い切ると、深々と頭を下げた。すると、チョコと目が合う。髪に隠れているのをいいことに、やってやったとばかりによし子は笑った。
頭を上げると、皆の視線を躱して自分の机に座った。ダウンジャケットを脱いで椅子に掛けると、自分も腰掛ける。鞄から百円ショップで買ったリング帳を取り出した。茶色いモコモコ犬がプリントされている。それをよし子は、ジャケットのポケットに入れた。
それからまた三十分ほどすると、皆がまたドアの方を向いた。よし子も見てみると、あの先輩が立っているのが見える。きっとまた、大きな音を立ててドアを開けたのだろう。それはいつものことだったが、今日はみんなの見る目が少し違った。またか、諦めている感じではない。よし子への対応に、しばしの不安を感じさせている。
「 」
先輩はよし子を指さすと、ズカズカと近づいてきた。何となく気配でわかるのか、警戒するようにチョコは低い唸り声をあげていた。
「 」
ニヤニヤと笑う口が、パクパクと動くのをよし子は見ている。しかし不思議なことに、予想していたより恐怖は感じなかった。それどころか、人を見下した態度に滑稽すら感じられる。
「 」
よし子がリアクションをしないからか、、睨むように眉を吊り上げる。そこでようやく周りがフォローを始めた。男性社員の一人が先輩に近づき、その肩を叩く。そして何かしゃべると、先輩はさっきより意地の悪そうな顔になった。
「 」
よし子を指さし、大きな口をあけて笑った。それには少し腹が立ち、ムッと顔をしかめる。しかしそれがまた面白いのか、また何か差別的なことを言って一人だけが笑っていた。
そう、誰一人として笑っていなかった。それはよし子には重要で、誰もこの目の間の人物に賛同はしていないことになる。皆が自分のことを嗤ってはいない。
味方にはならないけど、敵にもならない。
勢いというものは怖いな、とよし子は思う。しかしこの時のよし子には、そんなことを考える余裕などはなかった。
「すいません、何言ってるのか聞こえません」
よし子は立ち上がると、先輩をしっかりと見据えて言った。それに少しひるんでように、一歩だけ後ずさりをする。しかしすぐに調子を取り戻した顔になった。
「 」
先輩がそう言うと、よし子の机から紙とペンを取ろうと手を伸ばした。しかしそれを、よし子が強く叩く。
「私、ストレスで耳が聞こえなくなったんです。これ、全部あんたのせいだってわかってます?」
「 」
先輩をアンタ呼びしたのは、きっと初めてだ。面食らったように、周りの人間も含めて目を見開いている。口から出た言葉は取り消せない。ならば言いたいことを言ってしまえと、眼に力を込めた。
「キモイんですよ、あんた。人の体にべたべた触るわ、人のプライベート根掘り葉掘り聞くわ。それって立派なセクハラだって、わかってます?」
「 」
多分また気持ちの悪いことを言っているのだろうが、何もわからない。聴こえないだけでこんなに楽になるなんて、予想もしていなかった。
「それに、人の仕事の邪魔すんのやめてくれません? 自分はできる人間とでも勘違いしてるのか知りませんけど、私は私のやり方がありますんで。そんな成績悪い人のやり方真似したって、できないに決まってんじゃないですか」
「 」
仕事ができない。そうはっきり言ったからか、先輩はよし子に殴りかかって来た。しかしそれは隣にいた男性社員が羽交い絞めにしてくれたおかげで、よし子は怪我をせずに済む。そこで逃げればよかったのかもしれないが、頭に血が上ってるよし子にはまだまだ言い足りなかった。
「いっつも、仕事ができて女にモテちゃうできる俺、の妄想がにじみ出てて気持ち悪かったです。それに付き合わされるなんて、どんな罰ゲームですか? 勝手に私をあんたの勝手な妄想の相手にしないでください。迷惑です」
「 」
よし子は腕を引っ張られ、先輩と引き剥がされた。後ろを振り向けば、先輩の女性社員に引きずられるようにして部屋を出て行く。しかしその動きが、一瞬止まった。
よし子と同期で、よく話もする女の子が声を上げたらしい。
「 」
よし子とは違い、涙を浮かべながら訴えるようにして言った。その手にはスマホが握られており、その画面を先輩の方に向けている。どうやら動画が流れているようだった。
そちらにも先輩は向かって行こうとしたが、もう一人男性社員が抑えにかかる。もう少し状況を見ていたかったが、よし子は強制的にその場を退場させられた。
「 」
少し怒ったように言う先輩の女性社員を、眼をしばたたかせながら見ている。そこで耳が聞こえないことを思い出したのか、先輩はポケットを探し始めた。するとすかさずよし子が、メモ帳を渡す。
「気持ちはわかる。でも危ないでしょ」
返ってきたメモ帳には、殴り書きで短くそう書かれてあった。
「なんか、もういいやって思っちゃったんです」
悪びれもせずにそう言えば、先輩は呆れたような、でも少しほっとしたような顔をした。
「次の宛はあるの?」
「あー、ありませんね」
「紹介できるところがあるかもしれないから、遠慮なく言いなさい。とにかく、よく頑張った」
先輩はそう書いて、よし子の頭を撫でた。しかしすぐに悲しそうな顔になる。
「どうしたんですか?」
「ごめん、何か言える立場でもないのに」
「そんな事ないですよ」
誰だって自分が可愛い。それはきっとよし子だって同じだ。だからこそ、連れ出してくれたのは嬉しかった。
「ありがとうございます」
そんな風に言えば、先輩はよし子をぎゅっと抱きしめた。
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