幽霊聴導犬と犬嫌い

2/13
31人が本棚に入れています
本棚に追加
/13ページ
 どうやらこの犬は、実在しないらしい。というのも、追い出そうと体に触れると、ただ空を掴むだけだったからだ。  幻覚か、それとも幽霊か。どちらにしろ、よし子が怯えた目を向けるのに変わりはな。  できるだけトイプードルを見ないように玄関に入ると、何故だが足元にじゃれついてくる。物理的な感触はないものの、やはり恐怖で体がこわばった。  手早く靴を脱いで部屋に上がると、何故かトイプードルも一緒についてくる。 「入っちゃダメ!」  トイプードルを睨むと、手を前に突き出して叫ぶようによし子は言った。しかし全く応えないのか、しっぽを振ってその場に留まっている。  どんなに犬に疎いよし子でも、しっぽを振っているのは嬉しい証拠だというのはわかる。こんなに怒鳴っているのに何が楽しいのか、よし子にはわからなかった。それとも、構ってもらえたから嬉しいのだろうか。  よし子はトイプードルから視線をそらさずに、ゆっくりと後退した。それに比例するように、トイプードルも家の中に入ってくる。しかしリビングの入口まで来ると、ストンと伏せの格好になった。それからよし子を見つめてはいるが、動こうとはしない。 「はぁ……」  これ以上近づいてこないことに安堵を覚え、とりあえず胸をなでおろした。  よし子は部屋着に着替えるのも面倒で、床に鞄とコートを下ろすとソファに横になる。いつもの習慣でテレビをつけたが、音がしない画面になんの面白みも感じられない。しかしそれでも見ていないと、トイプードルの方に視線が向きそうだった。   ちょうど夕方のニュースの時間なのか、比較的字幕があるので見ていられる。これがドラマであれば、きっとよし子はすぐにチャンネルを変えただろう。  しばらくすると、グゥッと腹の虫が鳴き出す。そういえば今日は変な時間に予約をしていて、昼食を食べていないことを思い出した。 「冷蔵庫、なにがあったっけ?」  ソファから立ち上がると、ピクリとトイプードルの上半身が動いた。よし子の一挙一動を見守るように、じっと目を向ける。しかし立ち上がる気配はなかった。よし子はビクビクしながらその横を通ると、トイプードルがそれを目で追う。    流しの前まで来ると、よし子はようやく一息ついた。冷蔵庫を開けると、オレンジ色の電球が顔を照らす。 「うーん」  ここ最近怖くて外出していなかったせいか、食べられそうなものはなかった。野菜室や冷凍庫も見てみるが、野菜炒めも作れそうにない。 「今から買いに行くのもなぁ」  心配事が多すぎて、何もする気になれない。もう一度コートを羽織って、財布を持ってコンビニに行くなんて考えるだけで疲れてしまう。  それでも、腹の虫が収まる気配はない。 「なんかなかったかなぁ」  試しに戸棚を見てみると、調味料や紅茶のティーバッグが並んでいる。もっと奥に手を突っ込み、手当たりしだいに引っ張り出した。すると、いつ買ったかのか覚えてないカップラーメンを掴んだ。賞味期限を見ると、まだまだ間がある。 「でもなぁ……」  正直、耳が聴こえないのに火を使うのは抵抗があった。特にヤカンなんかは、音が鳴っても気がつかない。  しかし家を出て買い物に行く面倒を考えれば、カップラーメンはあまりにも魅力的だった。 「見てれば、問題ないよね」  そう自分に言い聞かせ、よし子はヤカンに水を入れた。  冷蔵庫に背を預けながら、コンロの火を見つめる。5分もすれば、細い湯気がユラユラと立ち上ってきた。 「もう少しかな?」  蓋を取ると、ヤカンの壁に小さな水泡がプツプツと出来ては消えている。よし子はまた蓋を戻して、沸騰するまでもう少し待った。  本格的に白い湯気が出てくると、火を止めようと手を伸ばした。すると、トイプードルが立ち上がるのを目の端で捉える。 『ワンッ、ワンッ!』  かと思えば、よし子めがけて一直線に走ってきた。後ろ足だけで立ち上がり、よし子の膝に飛びつく。それはまるでじゃれているようでもあった。 「わ、うわぁぁっ!」  よし子も思わずびっくりして、蹈鞴を踏む。その拍子に、背後の戸棚にぶつかった。そんなことをしている間に、ヤカンはグラグラと沸騰している。 「あ、止めないと!」  音が出るヤカンだから、きっと今頃ピーピーとけたたましく鳴っているのだろう。しかし目の前にはトイプードルが邪魔をして近づけない。 「もうっ! どいてよ!」  シッシッと手で払うも、全く意に介した様子もなくまだ膝に飛びついてきた。仕方がないので、トイプードルの体を通り抜けてコンロへと手を伸ばす。ようやく火を止めると、その場に座り込んでしまった。 『ワン、ワン』  トイプードルをみれば、何故か誇らしげに胸を張っているように見えた。しかしよし子の頭には怒りしかなく、先程よりきつく睨みつける。 「わたし、犬嫌いなんだから! まとわりつかないでよ! 憑くんなら他の人に憑いて!」  よし子はそう叫び、思いっきりトイプードルを叩いた。しかしぶつかる感触はなく、風をきるだけ。   「もう、なんなのよ!」  もはや食事を摂る気にもならず、よし子は寝室へと足音を鳴らして向かった。それにシュンとした顔のトイプードルがついてくる。 「だからついてこないでってば!」  一際大きな声を出すと、力一杯扉を閉めた。 「あぁぁぁ」  化粧も落とさず、服もそのままにベッドに横になる。うつ伏せで枕を掴むと、口元を抑えて叫んだ。  何で、私ばっかり……。そんなことを考えると、今までの嫌なことがブワッと思い出された。そのたびに顔をしかめ、掻き消すように頭を振る。    明日になれば、きっと犬の幻覚なんて見なくなる。そう、今日はちょっと色々あって、疲れてるだけなんだ。眠ったらきっと……。  もぞもぞと動き、掛布団を体にかけた。ふわふわの羽毛布団は気持ちよく、段々と体温で温かくなっていく。これならすぐにでも眠れそうだ。  よし子は目を閉じると、嫌なことから逃げるように夢の世界に入っていった。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!