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どうやらこの犬は、実在しないらしい。というのも、追い出そうと体に触れると、ただ空を掴むだけだったからだ。
幻覚か、それとも幽霊か。どちらにしろ、よし子が怯えた目を向けるのに変わりはな。
できるだけトイプードルを見ないように玄関に入ると、何故だが足元にじゃれついてくる。物理的な感触はないものの、やはり恐怖で体がこわばった。
手早く靴を脱いで部屋に上がると、何故かトイプードルも一緒についてくる。
「入っちゃダメ!」
トイプードルを睨むと、手を前に突き出して叫ぶようによし子は言った。しかし全く応えないのか、しっぽを振ってその場に留まっている。
どんなに犬に疎いよし子でも、しっぽを振っているのは嬉しい証拠だというのはわかる。こんなに怒鳴っているのに何が楽しいのか、よし子にはわからなかった。それとも、構ってもらえたから嬉しいのだろうか。
よし子はトイプードルから視線をそらさずに、ゆっくりと後退した。それに比例するように、トイプードルも家の中に入ってくる。しかしリビングの入口まで来ると、ストンと伏せの格好になった。それからよし子を見つめてはいるが、動こうとはしない。
「はぁ……」
これ以上近づいてこないことに安堵を覚え、とりあえず胸をなでおろした。
よし子は部屋着に着替えるのも面倒で、床に鞄とコートを下ろすとソファに横になる。いつもの習慣でテレビをつけたが、音がしない画面になんの面白みも感じられない。しかしそれでも見ていないと、トイプードルの方に視線が向きそうだった。
ちょうど夕方のニュースの時間なのか、比較的字幕があるので見ていられる。これがドラマであれば、きっとよし子はすぐにチャンネルを変えただろう。
しばらくすると、グゥッと腹の虫が鳴き出す。そういえば今日は変な時間に予約をしていて、昼食を食べていないことを思い出した。
「冷蔵庫、なにがあったっけ?」
ソファから立ち上がると、ピクリとトイプードルの上半身が動いた。よし子の一挙一動を見守るように、じっと目を向ける。しかし立ち上がる気配はなかった。よし子はビクビクしながらその横を通ると、トイプードルがそれを目で追う。
流しの前まで来ると、よし子はようやく一息ついた。冷蔵庫を開けると、オレンジ色の電球が顔を照らす。
「うーん」
ここ最近怖くて外出していなかったせいか、食べられそうなものはなかった。野菜室や冷凍庫も見てみるが、野菜炒めも作れそうにない。
「今から買いに行くのもなぁ」
心配事が多すぎて、何もする気になれない。もう一度コートを羽織って、財布を持ってコンビニに行くなんて考えるだけで疲れてしまう。
それでも、腹の虫が収まる気配はない。
「なんかなかったかなぁ」
試しに戸棚を見てみると、調味料や紅茶のティーバッグが並んでいる。もっと奥に手を突っ込み、手当たりしだいに引っ張り出した。すると、いつ買ったかのか覚えてないカップラーメンを掴んだ。賞味期限を見ると、まだまだ間がある。
「でもなぁ……」
正直、耳が聴こえないのに火を使うのは抵抗があった。特にヤカンなんかは、音が鳴っても気がつかない。
しかし家を出て買い物に行く面倒を考えれば、カップラーメンはあまりにも魅力的だった。
「見てれば、問題ないよね」
そう自分に言い聞かせ、よし子はヤカンに水を入れた。
冷蔵庫に背を預けながら、コンロの火を見つめる。5分もすれば、細い湯気がユラユラと立ち上ってきた。
「もう少しかな?」
蓋を取ると、ヤカンの壁に小さな水泡がプツプツと出来ては消えている。よし子はまた蓋を戻して、沸騰するまでもう少し待った。
本格的に白い湯気が出てくると、火を止めようと手を伸ばした。すると、トイプードルが立ち上がるのを目の端で捉える。
『ワンッ、ワンッ!』
かと思えば、よし子めがけて一直線に走ってきた。後ろ足だけで立ち上がり、よし子の膝に飛びつく。それはまるでじゃれているようでもあった。
「わ、うわぁぁっ!」
よし子も思わずびっくりして、蹈鞴を踏む。その拍子に、背後の戸棚にぶつかった。そんなことをしている間に、ヤカンはグラグラと沸騰している。
「あ、止めないと!」
音が出るヤカンだから、きっと今頃ピーピーとけたたましく鳴っているのだろう。しかし目の前にはトイプードルが邪魔をして近づけない。
「もうっ! どいてよ!」
シッシッと手で払うも、全く意に介した様子もなくまだ膝に飛びついてきた。仕方がないので、トイプードルの体を通り抜けてコンロへと手を伸ばす。ようやく火を止めると、その場に座り込んでしまった。
『ワン、ワン』
トイプードルをみれば、何故か誇らしげに胸を張っているように見えた。しかしよし子の頭には怒りしかなく、先程よりきつく睨みつける。
「わたし、犬嫌いなんだから! まとわりつかないでよ! 憑くんなら他の人に憑いて!」
よし子はそう叫び、思いっきりトイプードルを叩いた。しかしぶつかる感触はなく、風をきるだけ。
「もう、なんなのよ!」
もはや食事を摂る気にもならず、よし子は寝室へと足音を鳴らして向かった。それにシュンとした顔のトイプードルがついてくる。
「だからついてこないでってば!」
一際大きな声を出すと、力一杯扉を閉めた。
「あぁぁぁ」
化粧も落とさず、服もそのままにベッドに横になる。うつ伏せで枕を掴むと、口元を抑えて叫んだ。
何で、私ばっかり……。そんなことを考えると、今までの嫌なことがブワッと思い出された。そのたびに顔をしかめ、掻き消すように頭を振る。
明日になれば、きっと犬の幻覚なんて見なくなる。そう、今日はちょっと色々あって、疲れてるだけなんだ。眠ったらきっと……。
もぞもぞと動き、掛布団を体にかけた。ふわふわの羽毛布団は気持ちよく、段々と体温で温かくなっていく。これならすぐにでも眠れそうだ。
よし子は目を閉じると、嫌なことから逃げるように夢の世界に入っていった。
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