幽霊聴導犬と犬嫌い

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幽霊聴導犬と犬嫌い

 目の前では踏切が赤いランプを点滅させている。横の車道では、車が一台通り過ぎて行った。足を止めると、女子高生らしい二人組が、白い息を吐きながら楽しそうにおしゃべりに興じているのが見える。  その全ての音が、山口よし子には聞こえない。    その日よし子は、病院で心因性難聴だという診断を下されたのだった。  聞こえずらくなったと感じ始めたのは、半月ほど前のこと。人が話しているのは分かるのに、何を言っているのかわからない。相手に同じ内容を聞き返す。そんなことが多くなっていた。  その時は少しおかしいなくらいにしか思っておらず、仕事が忙しくてそれどころではない。繁盛期が終わったら病院へ行こう。そんな甘い考えでいたのだ。  そしてつい三日前、まったく耳が音を拾わなくなった。  それは仕事中、突然の出来事だった。不意に肩を叩かれそちらの方へ向けると、同僚が口をパクパクさせている。指をさす方へ向ければ、社内電話のランプが点滅していた。慌てて取ってみるが、受話器からは何の音もしない。  その様子に違和感を感じたのか、上司の命令でその日は帰ることになった。そして翌日になっても耳が聞こえないのは治らず、ようやく病院へと足を向けたのだった。  会社に何て言おう。有給はあとどれくらい残っていたっけ。それより前に、どうやって報告しよう。よし子の頭の中には、心配事がグルグルと渦巻いていた。  小さな三階建てのマンション「グラン」の204号室がよし子の家だった。慣れた様に鞄から鍵を取り出すと、差し込んで回す。音がないから変な感じだが、感触から扉が開いたのは分かった。 「はぁ……」  一人暮らしなので、ただいまを言う相手もいない。重いため息を吐くと、ゆっくりと扉を開けた。 『ワンっ!』  音を拾わないはずの耳に、よし子のこの世で一番怖い鳴き声が聞こえた。 「え……?」  扉を開け切ると、そこには茶色のトイプードルがちょこんと座っていた。 「いやぁぁぁぁ!」  よし子は大声を上げ、壊す勢いで扉を閉めた。犬が出られないように、外から渾身の力を込めて押さえつける。涙が頬を伝うのもかまわず、よし子は懸命にドアにしがみついていた。  よし子は、大の犬嫌いだった。それというのも、親戚の家で飼われているチワワに追いかけられたのが原因である。相性が合わないとでもいうのか、何もしていないはずなのによし子を見れば吠えながら追いかけるのが常であった。  そして飼い主である親戚の人間も、誰も止めてくれようとはしない。それどころか、犬が嬉しそうにじゃれついているとでも言うように微笑んでいる。  よし子は犬と触れ合う機会がないので、犬から見れば確かにじゃれていただけかもしれない。しかし牙をむき出しにしながら追いかけ回されたのはかなりのホラーだった。  それ以来、大型犬だろうが小型犬だろうが、犬という生物を見ると吠えられるのではないかとビクビクしてしまう。 「なんで犬がいるの……」  迷い犬だろうか。そんことを考えるが、しかし鍵はかかってるし、ここは二階だ。犬が入ってくることなどありえない。  では誰か、親戚が来ているのだろうかとも考えてみる。しかしなんの連絡もきてないし、それに親戚が飼ってるのは老いぼれたチワワだ。トイプードルではない。  そこでよし子は、あのトイプードルがちょっと見慣れないオレンジ色のベストを着ているのが気になった。  もしかしたら、飼い主の情報が入っているかもしれない。  しかし、よし子ひとりで近づくのは無理だった。そこに突然、左肩を叩かれる。振り返ると、隣の部屋の吉川が心配そうに眉をしかめていた。  吉川は60代で、夫と二人で住んでいる。よし子が知る限り、子どもの姿は見たことがなかった。買い物帰りなのか、膨らんだスーパーの袋を下げている。なにか話しているようで、口をパクパク動かしていた。 「すみません、いま病気で耳が聴こえないんです」  まだ言葉は喋れるらしく、とっさによし子は吉川に伝える。すると吉川は気を利かせて、自分のスマホのメモ帳に何かを書いてみせてきた。 「それは大変ね。ところで、なんで玄関を押さえてるの?」 「私、犬が嫌いなんですけど、家に帰ったら知らないトイプードルがいて。背中に飼い主の情報が入ってそうなベストを着てるんですけど、一人じゃ怖くて確認できないんです」 「そうなのね。それじゃあ、私が見てきてあげましょうか?」 「本当ですか? ありがとうございます」 「いいのよ。昔はダックスを飼ってたから、扱いには慣れてるつもりよ」  この時ほど、近所付き合いをしていてよかったと思ったことはなかった。  深々と頭を下げると、気にしないでというように吉川は手を振ってみせた。かと思うと、よし子の家のドアノブに手をかける。そして躊躇なく、その扉を開けた。その様子を、よし子は数歩離れたところから伺う。  何かを探すように、吉川は玄関をキョロキョロと見回す。そしてよし子の方に振り向いた顔は、怪訝そうに眉をしかめていた。恐る恐るというように、ゆっくりと文字を打っていく。 「どうかしましたか?」 「トイプードルなんて、どこにもいないわよ」 「え?」  吉川はもう一度確かめるように、玄関の方を一瞥する。  よし子も確認するために、ドアの後ろに隠れてソーっと玄関を覗き込んだ。しかしそこには、茶色い巻毛のトイプードルが、しっぽを揺らしてよし子を見つめている。よく見れば、少し透けているような気がしないでもなかった。 「あなた、見間違えたんじゃない? きっと疲れてるのよ」  労るような言葉を書いて、吉川は肩をポンポンと叩いた。そして自分のスマホの電源を切り、隣の自分の家に帰っていく。  残されたのは、よし子と、他人には見えないトイプードルだけ。 「あんた、なんなのよ」 『ワンッ!』  犬の鳴き声はよく聞こえるのが、なんとも皮肉に感じた。  
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