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残業
「草太くん、あなた先に帰っていいわよ。あとは私がやるから」
草太は春野主任と共に残業していた。仮眠させてもらった条件が
残業だったが、草太にとっては少しも苦ではなかった。
美しい主任と共に仕事ができるからだ。彼女の息遣いを感じながら
仕事に励むのは、むしろ喜びだった。だから最後まで一緒に仕事が
したかった。
「女性である主任を、おひとりで帰すわけにはいきません」
「大丈夫よ。タクシーチケットあるから」
紳士を気取ってみたが、糠に釘、暖簾に腕押し、
春野主任には全く意味がなかったらしい。
「悪いけど、草太くんにやってもらえる仕事は、もうないの」
「そ、そうすか……」
申し訳なさそうに、そっと主任は告げた。容赦のない現実。
草太は黙って受け入れるしかなかった。
「すみません。お先に失礼します」
「はい、お疲れ様でした」
美しい微笑みで応えてくれたが、すぐに仕事の顔に戻ってしまう。
パソコンのデータを真剣に見つめる主任は、どこか楽しそうだった。
(本当に、この仕事が好きなんだな)
春野主任は誰より努力家であることは、社の誰もが認めるところだった。
そして相応の結果も出してきた。草太にとって、春野主任は憧れであり、
尊敬する上司でもあった。
「そうだ。せめて主任の好きなチョコレートでもさしいれしよう」
公にはしてないようだが、春野主任は甘いもの、特にチョコレートが
好物らしい。仕事の休憩時に、よく食べているからだ。
チョコを口にふくんだ瞬間にだけ見せる、とろけるように幸せそうな顔。
あの顔を近くで見られないのは残念だが、仕事に集中する主任の邪魔はしたくない。少し高級なチョコレートを買ってきて、そっと置いていこう。ひとり考えを巡らした草太は、近くの店に走った。
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