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いつものこと
携帯が震えて、けたたましい着信音が部屋に鳴り響いた。時刻は3時30分。この時間に電話をかけてくる人間は8割、アイツしかいないだろう。
『キキ。』
はい、という返事と被せて携帯から甘ったるい声が聞こえてきた。名前を呼ぶ、たった2文字でこの人は、こんなにも含みを持たせることができる。わざとなのか、無意識なのか。
「今いきます」
電話を切ると、重い腰を動かして玄関に向かう。ガチャ、とドアを開ければ白いシャツとグレーのチノパン、黒い革靴。真っ暗な部屋に居た目は外の明るさに耐えられなくシバシバした。男の香水の香りが風と一緒に部屋に入ってくる。ブランド名もわからないこの香水はっすっかり鼻が覚えてしまった。
「今起きたんでしょ。ご飯食べよ。」
視線を足元から上にずらす。パーマのかかった茶色い前髪の間で細めの瞳がキュッとさらに細くなって、唇の端っこが上に上がる。誰がどう見ても好青年の彼は、高木直人。ただのバイト先の先輩だ。
「どうぞ。相変わらず汚いですけど」
「はーい。お邪魔します。」
部屋に入ると持っていたビニール袋から小麦粉と野菜の匂い。なんだか嗅いだことのある匂いだ。彼はキッチンに立つとシャツの袖をまくってシンクに溜まったコップやフォークを洗い始める。私はというと、来客にお茶も出さず洗い物をさせソファーでその様子をじっと眺めているだけだ。何も言わずとも、彼はこの家の勝手をよく分かっている。
「キキちゃんさあ、少しは部屋綺麗にしようとか思わない?」
「散らかっては無いからいいじゃ無いですか」
「そうだけど、物がなくて殺風景だよ。女の子ってさ、ベットに可愛いぬいぐるみ置いたり、タンスの上に写真置いたりして、可愛い自分を作る生き物じゃ無いの?」
「世の中の女が全て、先輩の抱いてきた女みたいな奴らばっかじゃ無いんですよ」
先輩はチラッと目線だけこちらによこして、クスッと笑う。それもそっか、なんて言ってタオルで手を拭く。何をしても様になる、イケメンの先輩は数々の女を出し抜いてきて、何レパートリーの部屋に上がったんだろう。
どうだっていいのだが、世間のキラキラした女の子と私は違った。ファッションにヘアースタイル、タピオカもInstagramも興味がない。きている服は黒ばっかりでtシャツやパーカー、ジーンズだし、髪の毛だって一回も染めたことがない。だけど傷んでいない黒いショートヘアーは自分に似合っていると思っているし、着やすい服は好きだ。
「‥‥今日のご飯は?」
「ん?ああ、今日はね、Hobo Cafeのサンドウィッチ。キキちゃん、ここのサンドウィッチ好きでしょ。」
Hobo Cafeというのは私の家から15分ほど歩いた所にあるおじいちゃんが一人でやっているカフェで、昔ながらの喫茶店のような雰囲気と店主のおじいちゃんが作る料理の美味しさにハマり、週に一回は足を運ぶ。私のお気に入りのカフェである。大通りから外れた寂れた通りにあるこのカフェには、インスタ映えを狙うキラーたちもいなければ、人入りも少ない知る人ぞ知る穴場の場所だ。
「! 卵とツナ?」
「正解。キキちゃんほんと鼻いいな。」
大好物の名前に一気にテンションが上がる。なんだか途端にお腹がすいてきた。
よっこいしょ、と隣に座る先輩は勿体なさそうに袋からサンドウィッチを取り出した。すかさず手を伸ばすとスイッと避けられ、「だーーめ。」と制される。待てを食らった私はなりそうなお腹を抑えて先輩を睨みつける。
「あのね、好きなものって後にとっておく派?それとも、先に食べる派?」
急に何を‘いい出すんだこいつは。うーん、と数秒考えてから、
「先に食べる派です。」
言い終わって視線をあげた時、先輩と自分との距離が触れそうなほどに近いことに気がついた。目の前に端整な顔が広がり、鼻先は触れていた。
「俺もね、先に食べる派なの。」
鼻いっぱいに香水の香りが広がってクラクラする。私の目をまっすぐ見つめる瞳の奥は熱を帯びているようで、ユラユラと揺れていた。
だからね。先輩の大きい掌が私の顔の左側を包んだ。この後の流れは、大方の予想がついていたが、私は気づいていないふりをして、驚いた顔なんかしてみせた。
いい?と聞かれた頃には目を伏せていた。先輩の唇が私のそれに柔らかく触れたあと、背中がゆっくりとラグに押し付けられた。
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