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第八節
その日、アーリンはいつも通り姫君への講義を終え、自身の魔術研究室に戻るところだった。研究区域まで入ると、さすがに人がほとんどいない。研究室の扉の前に立ち、手をかざす。そして「主、来たれり」と扉に声をかけると、しばらくしてかちりと鍵のまわる音がした。そして扉がひとりでに開いたところで、彼女は驚きでひっと息を呑んだ。
乱雑に積みあがった本、書き散らかしの報告書や研究書、水の張った盥や天秤やこの国の立体模型や――そういった研究道具が散らばる中、それに似つかわしくない人物がそこにいたのだ。
彼女の主はどうもアーリンを待っている間中暇だったのか、本に目を落としていた。そしてアーリンに気づくと、その本をぱたりと閉じて机の本の山に戻す。
「こ、こ、皇太子殿下、なぜここに……!?」
「アーリンに聞きたいことがある」
エバン様を通さず私直々に――? アーリンの心拍数が跳ね上がり、緊張で冷や汗がぶわりと吹き出る。心当たりといえば、先日エバン様に提出した、姫君に関する報告書くらいだ。その件で何かあるのだろうか。
皇太子殿下はアーリンの様子を訝しむように、少し首を傾げた。その拍子にさらりと癖のない黒髪が揺れる。けれどもその口から出たのは、アーリンの予想とはまったくかけ離れた質問だった。
「この近辺で、姫君が喜びそうな場所はどこだと思う?」
「は……」
アーリンはぽかんと口を開けた。皇太子殿下はアーリンの表情をなんととらえたのか、三角フラスコに入った液体を興味津々に眺めながら、素早く言い訳めいた言葉を口にした。
「そろそろ季節もいいから、視察に連れ出そうと思うのだが、そういうことは女性の方が詳しいだろうし、アーリンは姫君ともっとも接しているだろう?」
その黒曜石の瞳には、なんの邪気もない。アーリンは開けた口を閉じながら、皇太子殿下を不躾にもまじまじと見てしまった。冷静沈着でさながら人形のようだと謳われている皇太子が、まるで初恋をしている少年のように思えたのだ。だが、まさかそんなことはあるまいと、邪推は打ち消す。
とにかく皇太子殿下の問いに答えるべく、アーリンは頭の中で姫君を思い浮かべた。あの姫君に街中の喧騒は似つかわしくないように思える。無論、街中で買い物を楽しまないとは思わないけれど、もっと生命に満ち溢れた光の中、緑や花や木々といった、そんな自然の空気のほうがぴったりと合う気がした。
アーリンがそのことを伝えると、皇太子殿下はしばし考えこんでいたようだったが、「わかった。時間をとってすまなかった」と礼を述べて去っていった。
扉がぱたりと閉じられた瞬間、アーリンにどっと疲労が押し寄せてきた。力が抜けて、へたりと床に座り込む。皇太子殿下と直々に話すなど、いくら魔術師が殿下に重用されているとはいえ、一介の研究者にすぎないアーリンの立場ではめったにないことだった。しかもこのように、アーリンの研究室にしのびでやってくるなど。
(びっくり、した……)
あとでエバンに報告するべきか、アーリンは魔術式を研究するときよりもくたびれた頭で考え始めた。
澄み切った空に、まだ春の名残りのある日差しの中、リドヴィナは西の塔の庭を散策していた。後ろについてくれているのは、乳母のエイデルだ。エイデルは生まれたころから今に至るまで忠実に従ってくれていて、もはやリドヴィナになくてはならない存在である。祖国に自分の子や夫もいるのに、異国にまでついてきてくれた彼女に、リドヴィナは感謝の念が絶えない。
「こちらの春はずいぶん遅いのですね。シャフィーク王国ではとっくに初夏ですのに」
どこか祖国を懐かしむような言葉に、リドヴィナも相槌をうつ。
「そうね。でも夏は過ごしやすいと思うわ」
シャフィーク王国ならば日中はもう汗ばむ陽気の日があってもおかしくないが、この国ではまだ肌寒ささえ感じる。そのせいか、よく手入れされているにも関わらず、この庭の薔薇はまだすべて蕾だ。シャフィーク王国ではもうとっくに盛りを迎えているころだろう。少し触れてみようと思い手をのばした瞬間。
「姫君、今よろしいか」
突然かけられた声に、エイデルとともに振り向く。
――そこにいたのは藍色の薄手の外套を纏ったグレイだった。
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