第九節

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第九節

 リドヴィナの部屋に行ったならば、ちょうど庭にいると聞いてグレイはそちらへ向かった。むしろその方が都合がよかったからだ。  庭に着くと、彼女は祖国から連れてきた乳母――エイデルと言ったはずだ――とともにまだ蕾の薔薇を眺めていた。 「姫君、今よろしいか」  そう声をかけると、グレイの気配に気づいていなかったのか、驚いたように振り向く。けれどもすぐにいつもの微笑みを浮かべ、「はい、なんでしょうか」と答えてくれた。 「その、この前、約束した外出の件だ。ちょうど時間ができたので、どうだろうかと思ったのだ」  するとリドヴィナはぱっと顔を輝かせた。それを受けて乳母も「では支度をいたしましょう」と言った。だがグレイはそれを遮る。 「いや、支度も従者もいらない。今回は馬に乗れないのなら、乳母殿も遠慮していただきたい」 「え?」  乳母が目を白黒させた。それもそうだろう。良家の子女、ましてや王家の姫君が従者もなしに外へ出るなどありえないことだ。けれどグレイには考えあってのことで、けっして何の策もなしにそんなことは言わない。ましてや今は叔父がどう仕掛けてくるかわからないのだから。 「姫様おひとりなど、そんな……」 「姫君に無礼はしない。護衛もこちらで考えてある」  食い下がる乳母にそう伝えると、リドヴィナが「わかりました」と乳母より先に了承した。 「姫様!?」 「殿下の仰ることは本当でしょうし、わたくしがお願いしたことですから」  口ではそういいつつも、リドヴィナがそわそわしているのが見て取れる。乳母も長年の付き合いで、もう止められないとわかったのか、「では皇太子殿下、姫様をくれぐれもよろしくお願い申し上げます」と諦めて頭を下げる。 「もちろんだ、では姫君こちらへ」  グレイはリドヴィナの手をとり、庭をぐるりと回りこむ。西の塔は客人用の建物であるため宮廷でも奥まっていて、閑静な外れにある。だからすぐに城の裏手に到着した。  城門のすぐそば、やわらかな芝生の上に白馬が優雅にたたずんでおり、そしてそれの手綱をエバンが握っていた。 「お待ちしておりました。準備は整っております」 「ありがとう。姫君は馬に乗れるか?」 「いえ……」 「そうか。それなら、まずこれを着てくれ。まだ冷えるからな」  グレイはエバンから受け取った、濃い緑色の外套をリドヴィナに着せた。寒さ避けと言いつつも、この外套とグレイの外套には、エバンに魔術をかけてもらっている。これをまとえば魔術師で、魔力感知に長けている者ならばともかく、それ以外の人間ではまずまとった者の姿を認知できない。同じ魔術を馬の鞍や手綱にもかけてもらっているため、馬も同様に見えない。そして叔父一派には手駒にできる魔術師がいない。  近衛兵をつけて外出すれば目立つ。かといって単身で出かければ攻撃を受けたときに危険すぎる。ならばいっそ見えなければ攻撃の仕様がない――それがグレイとエバンたちとで考え出した究極の護衛方法だった。無論、執務室にグレイの身代わりも用意している。  そしてリドヴィナを横抱きにして、彼女を素早く馬に押し上げると、自分もその後ろへまたがって手綱をとる。急に高くなった視界に戸惑ったのか、それとも突然のことで何が起きたのかわからないのか、あるいはその両方か。案の定、リドヴィナは目を白黒させていた。 「で、殿下、どちらへ行かれるのです?」 「視察だ。といっても街ではないが。エバン、あとは頼んだ。日暮れには戻る」 「承知しました。行ってらっしゃいませ」  エバンが城門を開ける。ゆっくりと開かれる門に、もう待ちきれないとばかりに馬が駆けだそうとする。グレイは手綱を引いて、抑えつつ――しかし城門が開かれた瞬間、思い切り愛馬の脇腹を蹴って城門の向こう側へ走らせた。最初は軽やかに――しかし裏の城門を抜けてからは風が吹き抜けるがごとく。 「で、殿下!?」 「喋ると舌を噛む。怖いならしがみついてかまわない」  こんなことを経験したことのないだろうリドヴィナが、グレイの言葉を聞いてぎゅっとしがみついてきた。自分から申し出たことなのに、心臓がはねる。前だけを見据えつつも、伝わってくるリドヴィナの緊張と花の香りに、ともすれば頭がくらくらしそうになった。  石畳で舗装された城下町へと通ずる道とは反対に、徐々に白樺の木々が増えてきて森に入る。ろくに整備されていない道とも呼べない道を、爽やかでありながら少し冷たい風とともに、グレイは迷いなく愛馬で駆け抜けた。木漏れ日の美しい森は次第に深さを増していき、その中をいったいどれほど走ったか。  突如森が終わりを告げ、開けた視界の先、ずっと彼方まで続く――海かと見まごうような大きな湖があらわれた。グレイは馬の速度をゆるめ、見晴らしのいい場所で止まった。 「着いた。ここが今日の視察場所だ」  姫を見やれば、ようやく顔をあげた。ずっとうつむいていたからか、一瞬明るさに目を細め、しかし次の瞬間、「ここは……」とやや戸惑いの声をあげた。 「あなたは自然が好きだと聞いた」 「ええ、それはそうですけれど……」 「ここから先はずっと河だ。あまりにも広すぎて見えないが、やがて一年中凍った海へと続いていく。ゆえにどの国の軍も、支流さえない河を遡れない。だから自然の要塞となっているのだ」 「一年中、凍った海……」  そう説明すれば彼女は納得したような、しかしやはり戸惑ったような表情のままだった。リドヴィナにとってはつまらない話だっただろうか――グレイがそう懸念していると、リドヴィナの目線が湖岸へと注がれているのに気付いた。  そこにいるのは白鳥だった。それも一羽二羽の話ではなく、ひしめきあうような大群だ。  そしてそれを見た瞬間、腕の中にいたリドヴィナの様子が一変した。馬から身を乗り出すので、落ちないよう慌てて抱き留めたけれど、本人は全然気にしていない。というより気づいていないといったほうが正しい。いったい何がそんなに気になるのか――その疑問は彼女の言葉で解消された。 「あれは白鳥? もしかして全部白鳥なのですか!? すごい!」  彼女の瞳が幼子のようにきらめく。年齢や立場にそぐわないその表情に、思わず惹きつけられた。普段から好奇心旺盛だがそれよりももっと生き生きとした、彼女の本来の姿を見たような気がして。 「シャフィーク王国には白鳥はいないのか?」 「あの、いえ、いないというわけではないのですが……その、わたくしが本以外では見たことがないというだけで」  自分の言葉に我に返ったのか、急にしおらしくなる。言葉ももぞもぞと落ち着きがなく、それはそれで彼女らしくない。先ほどからの目まぐるしい表情の変化におかしくなって、思わずぷっと吹き出せば、リドヴィナの白皙の頬が赤く染まった。 「わ、笑わないでくださいませ!」 「ああ、いや、すまなかった」  目尻に浮かんだ涙をぬぐいながら謝罪すれば、姫は少し拗ねたような表情になる。それがまたなんとも子供じみていておかしかったのだが、それは口にせず、詫びも兼ねて代わりにある提案をしてみた。 「そんなに白鳥が見たいのなら、もう少し先まで降りようか」 「よろしいのですか?」  リドヴィナがきょとんと見上げてくる。そんなに思いがけない申し出だったのだろうか。だけど確かに以前の自分なら、こんなことは言わなかっただろう。グレイは答えの代わりに彼女をしっかり抱えなおした。  愛馬の脇腹を蹴り、手綱を引けば、答えるように丘を駆け下りていく。冷たい風が火照った頬にぴしぴしと当たって心地よい。彼女がぎゅっとグレイの服を握りしめれば、なぜかより胸が高鳴る。  丘を駆け下りれば、もう湖岸だった。白鳥の羽ばたきも、水のさざめきも、すべてがもっと近くに感じられる。グレイは先に馬から降りると、リドヴィナへ手を差し出した。彼女の白いたおやかな手がそっと重ねられる。グレイは引き寄せ、彼女を抱き下ろした。 「ありがとうございます、殿下」  それが湖岸まで降りたことへの礼か、馬から降ろしたことへの礼かは判然としないけれど、いずれにせよグレイはこそばゆくなった。今まで素直に礼を言われたことはあまりない。そんな気持ちをごまかすかのように、視線を湖へと向けた。 「ほら、傍で見たかったのだろう?」 「はい。近くで見ると思ったよりも大きいのですね……」  リドヴィナは興味津々といったように、湖岸ぎりぎりを泳ぐ白鳥を見つめている。放っておけばそのまま手を白鳥に差し出しかねない雰囲気だ。案の定、そろりとその手が動こうとしたので、グレイは後ろからその腕をつかんだ。彼女が驚いたように振り向く。 「殿下?」 「白鳥には触れてはいけない。優雅な見た目と裏腹に、なかなか気が荒い。怪我をしてはあなたもつまらないだろう」 「あ、そうですね……」  グレイはすぐに腕を離したが、彼女が少し落ち込んでいるのは目に見えた。グレイはふうとひとつ息を吐くと、その左手をまっすぐ白鳥のいない水域に向ける。彼女の「殿下?」という怪訝そうな声にもかまわず、グレイは意識を左手に集中させる。体内の魔力をかき集め、かざした手のひらに集める。そして――。  水面がゆらりと持ち上がる。水柱が一気に立ち上がり崩れた――と思った次の瞬間、重力に逆らって水が宙を舞い始める。白鳥たちがその中をばさばさと飛び立っていく。  水滴はグレイの思うまま、きらめきながら花びらをかたどり、次には鳥となり空へ飛んでいく。かと思えばはじけて湖面に降り注ぐ。優しい春の雨のように湖面へ落ちていく水に、太陽光が虹を映し出した。 「白鳥に触れることはかなわないが、こちらはお気に召していただけたかな?」  彼女を振り返れば、彼女はあっけに取られていた。言葉もないといった風情で。 「殿下は魔術を使えるのですね……」 「母が宮廷魔術師だったから、その血だろう。とはいえ、こういったことくらいにしか使い道はない」 「亡くなられた皇后様が宮廷魔術師だったのですか?」  グレイはうなずいた。 「父に見初められて皇后になったのだが、本人は宮廷魔術師でいる方が性にあっていたらしい。あまり父との折り合いもよくなくて、私を出産したときの産褥で亡くなった。よくある、つまらない話だろう?」  自虐的に呟けば彼女は申し訳なさそうにかぶりをふった。 「いえ、不躾な質問をして申し訳ございませんでした。ですが殿下」 「なんだ?」 「先ほどご自分の力は、この程度にしか使い道はないと仰いましたが……」  彼女は少し言葉を探すように黙っていたが、やがてグレイをひたりと見つめて微笑んだ。 「魔術は役にたつ、たたないだけで測れるものではないかと。誰かを楽しませるために使うことも、立派な使い道かと思います。何より、そのお心遣いが嬉しいのです。ありがとうございました」  彼女の邪気のない笑みに、グレイははっとした。確かにこれまで魔術を誰かを喜ばせるために使ったことなどなかった。いつだって自分の身を守るため、あるいは誰かを従わせるためだけの、打算的なものにすぎなかったのに。  それがなぜだろう――彼女には暗い表情をしてほしくなかった。笑っていてほしい、少なくとも憂いを帯びた顔を見たくなかった。  グレイは内心で首を傾げ、しかし深く考えないことにした。そういう気まぐれを起こす日だってある。それに今日は彼女へ礼をするための日だったのだから。心の中でそう結論づけながら、いつもより感情豊かな彼女を見つめた。
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