第十壱節

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第十壱節

 披露目の日は晴天だった。初夏の晴れやかな日差しに、ふきぬける爽やかな風。だが開放された宮廷の広場は、集まった民衆たちの熱気であふれていた。  その広場に面したバルコニーは、内側に小部屋がついている。そこにはグレイとリドヴィナ、そしてエバンとアーリン、それと近衛隊やエイデルを始めとした侍女数名に、あとは皇帝陛下を筆頭に重臣たちが居並んでいる。この婚約のまとめ役であったエイワーズも当然いるし、アルトも皇族ということでなぜかその場にいた。 (さて、何を仕掛けてくるか)  グレイは面々を一瞥した。この小部屋――とはいっても広間に及ばない広さというだけだ――には、扉に認証魔術がかかっているため、皇帝が許可した者以外は入れない。  とすれば、やはり外だろうか。民衆たちが広場でひしめき合っているため、外は騒がしい。その中にグレイの手の者を潜ませているが、逆に言えばそれはアルトたちも同じこと。油断はいっさいできない。 「時間です」  小姓がそう告げ、バルコニーへの扉を開ける。開け放たれた扉から歓声が飛び込んできた。グレイとリドヴィナはどちらからともなく手を取り合い、広々としたバルコニーへと立つ。眼下の民衆へリドヴィナが微笑みたおやかな手をひらりとふった瞬間、歓声がさらに大きく上がった。 「皇太子殿下おめでとうございます」「お幸せに!」一番近くにいる民衆からそんな声があがってくる。グレイもそれに応えようと、バルコニーの手すりに一歩近づいたときだった。 「ぐあ!」「ぎゃあ!」「陛下をお守りせよ、衛兵!」  なぜか悲鳴が後方から聞こえた。後方――つまり先ほどまでリドヴィナとグレイのいた部屋からだ。  リドヴィナとグレイが振り向けば、バルコニーへまっすぐと向かってくる人影があった。その手にはきらめく剣。部屋が通常より狭いことが災いして、エバンや近衛兵が間に入ることができず、制止が間に合わない。その人影は一歩二歩と素早く軽やかに踏み切り、グレイを殺せる間合いに入ってきた。グレイは軽く舌打ちし、袖の隠しから短剣を手に滑り込ませる。だが――。  暗殺者はグレイを斬りつけなかった。最後の一歩で、剣を横にかまえグレイを斬ると思った瞬間、体勢を変え、リドヴィナにまっすぐ斬りつけた。白刃が太陽にきらめく。民衆から悲鳴があがる。リドヴィナの瞳が大きく見開かれる。  グレイの頭からざあっと血の気のひく音がした。 「姫君!」  叫ぶと同時に暗殺者の首元を狙って短剣で斬りつける。だが浅い。わずかに襟を引き裂いたのみで、暗殺者の目がぎろりとグレイに向く。けれど奴が剣をかまえた瞬間、動きがぴたりと止まった。まるで剣をもった腕が縄で引っ張られているかのように、そこから動かない。  部屋を見れば、エバンが青ざめた顔で指をこちらに向けている。どうやら拘束魔術を発動したらしい。エバンに体の自由を奪われた暗殺者の手から剣が離れ、からんと音を立ててバルコニーの床に落ちた。  その音でグレイははっと我に返った。ずっと遠ざかっていた様々な知覚が一気に戻ってくる。民衆の悲鳴、暗殺者に斬りつけられうずくまる臣下や侍女たち。足元に這いつくばっている暗殺者は、近衛兵の格好をしている。そしてリドヴィナは呆然としたように、腕をおさえてへたりと座り込んでいる。あの斬り方では怪我をしているはずだ――グレイはそう考え傍によった。 「姫君、腕を見せて」 「あ、いえ、わたくしは大丈夫です。それよりもエイデルや他の――」  こんなときに他者を心配するリドヴィナに、グレイは少し苛立った。グレイにとっては、どう考えてもリドヴィナの怪我が優先すべきことだった。  常ならばそんな無礼な真似はしないのに、苛立ちまぎれにグレイはリドヴィナの腕をぐっと引き寄せた。突然のことに、リドヴィナの腕を覆っていた手が外れて、切り裂かれた袖があらわになる。  ――だがそれで動きを止めたのは、リドヴィナではなくグレイのほうだった。  目の当たりにした事実にグレイが呆然としていると、リドヴィナはぱっと腕を隠した。グレイから顔をそむけたので、乱れた髪が顔にかかり、その表情は暗く翳って見えない。グレイの唇は言葉を紡いでくれず、ようやく出た声はひどくかすれていた。 「姫……」 「……殿下、お話がございますので、部屋へ」  その呼びかけにリドヴィナはグレイを仰ぎ見、そしてグレイにだけ聞こえるよう囁きかけた。どこか諦念のようなものを漂わせつつも、その翡翠色の瞳には何か決然としたものが浮かんでいた。リドヴィナには何か隠していることがある――直観的にそう悟ったグレイはうなずき、彼女を庇うように支えて立ちあがった。 「エバン、あとは頼んだ。姫を部屋まで送ってくる」 「御意。近衛兵、暗殺者を地下牢へ」  入れ替わりに近衛兵がばたばたとバルコニーに入ってくる。部屋の中では怪我人が応急処置を受けていた。無事だった者たちは皆、今目の前で起きた出来事に青ざめている。皇帝はどうやら別室へ速やかに避難したらしい。アルトもいないところを見れば、おそらく皇帝と一緒にいるのだろう。エイワーズだけが表情を変えずそこにいた。  だがそれには目もくれず、そんな者たちの間をすり抜けるように、グレイはリドヴィナとエイデル、そしてアーリンも連れて、その場を抜け出した。        ~*~*~*~*~*~*~*~*~*~  グレイの自室につくなり、リドヴィナは人払いを頼んだ。グレイはアーリンに頼み、部屋そのものに人除けの魔術をかけてもらった。おかげでここで話していることはいっさい部屋の外には聞こえないし、扉も常人の目には見えなくなった。  朝夕に食事をともにしていたテーブルへと向かい合って座る。しばらく沈黙が流れたが、先に口火を切ったのはグレイだった。 「それで姫君、話というのは」 「殿下もお気づきでいらっしゃるでしょう。私の身体のことです」  瞬間、リドヴィナの後ろに控えていたエイデルがさっと表情を変えた。「姫様」と話を中断させようとするが、リドヴィナは手でそれを制した。そして黙って切り裂かれた方の腕を差し出したので、グレイは「失礼する」と腕に触れた。  ほっそりと折れそうなほど細い腕に触れて、グレイは眉を寄せた。袖は無残にも深く切り裂かれていた。だが。 「……先ほど、あなたの腕は確かに暗殺者に切り裂かれた。なのに血は出ておらず、肌には一線の筋だけ」  グレイは淡々と事実を告げた。彼女はこくりとうなずき、それを肯定する。  グレイが先ほど呆然としたのは、それが理由だった。  リドヴィナの腕は白い。だがそれだけだった。これほど袖が深く切り裂かれているのなら、当然腕にも傷がつき出血するはずだ。けれども深い傷どころか、出血した跡すらもない。わずかに紙で指を切ったときのような筋があるが、それにも血がにじんでいない。 「……考えられるとすれば、あなたの身体が高度な再生能力を有しているくらいだ。数は少ないがそれを施せる魔術師もいないことはないだろう。ましてやあなたは王族だ。後継者の命を守るため、生まれたときに宮廷魔術師がそういった魔術を施す――そんな史実も残っている。そうなのか?」  それは確認のようであって、確認ではなかった。確かにひどく珍しい事例ではあるが、もしそんな程度のことならば、わざわざリドヴィナは人払いを頼んでまでグレイに話をしない。それ以上のもっと重大な何か、リドヴィナがひた隠しにしたい事実が隠れている。  心臓が嫌な音を立てた。どんな話にせよいい話ではない予感はした。グレイはリドヴィナをまっすぐに見つめた。そのとき自分がどんな表情をしていたのかまではわからなかった。  そしてリドヴィナはその重い口を開いた。罪人が罪を告白するように、重苦しい空気が場を支配する。彼女の雪のように白い顔はさらに色をなくし、そこにいるのは常のリドヴィナではなく、リドヴィナの影だけが翡翠の双眸を残してゆらめいているようだった。 「いえ、違います。殿下、わたくしの身体は、わたくしは――」  リドヴィナの口から放たれた言葉に、グレイは耳を疑った。  ――今、彼女はなんといった?  彼女の後ろに控えるエイデルの表情は青ざめていた。そしてそれによって、リドヴィナの話したことは事実であり、揺るぎない真実だと立証された。だがにわかには信じられなかった。まさかリドヴィナが。 「人形、だと?」  リドヴィナは黙ってうなずいた。  エイデルは両手を顔で覆って今にも崩れ落ちそうだった。  ――グレイの世界から、音と色とが遠ざかっていった。
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