第十参節

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第十参節

 かつん、かつんと石畳を踏む音が響く。太陽の光はおろか、青空の一片さえも拝めぬような薄暗い地下から豪華絢爛な宮廷へと続く石造りの螺旋階段を、エバンは燭台片手に上っていた。  その表情は完全なる無だった。  捕縛した暗殺者は、あのあと地下牢に放り込まれた。エバンは面会権限を有する立場にないので、公に暗殺者と会うことはできない。ゆえに地下牢に放り込んで逃げられる心配がなくなり、捕縛魔術を解いた瞬間、邪魔だと言わんばかりに追い出されたのである。  この国では魔術師はしょせん研究者の一種に過ぎず、その力を利用されることはあっても、政治的に優位に立つことは法律的にも身分的にも許されていない。エバンにとって、それは昔から幾度も歯がゆいと実感することではあった。けれども歴史は証明している。魔術師が政治的に優位になったときには、国が滅びかねないと。  もとより魔術師の数は少ない。魔術師同士が結婚して子供が生まれたとて、その子供が魔術を使えるとは限らない。その少ない魔術師たちに、たとえば天候操作の魔術、たとえば未来予知の魔術、たとえば自然災害を防止する魔術、そんなものを使わせればどうなるか。そしてそれらを使って政治をすればどうなるか。  頻繁に自然の摂理に抗う魔術を使えば、魔術師たちはあっという間に魔力を使い果たし、最後には生命力をも使い果たして死んでいく。短命になることは間違いない。そしてそれに依存して政治をしていれば、仮に魔術師が全滅したとき、人間は何も選べなくなる。予期していなかった旱や大雨や、地震や火災にどう対処するか――そのすべを魔術以外に持ちえないから。結果、魔術師に依存してきた国は、歴史上早々に滅んでいる。  ゆえにエバンもグレイには教えてきた。『魔術に依存した政治はするな』と。魔術を使うのは、己の身を守るためだけにとどめておけ、魔術師には政治的地位を与えるなと教えてきた。  だがそれは、ひいては政治的にはグレイを守る力がないことと同義だった。さらにいえばそのせいで、二十数年前には愛弟子を喪ったのだった。  現に今も、暗殺者の背後関係を暴くことさえ許されず、すごすごと引き下がるしかできない。あのエイワーズのことだ、暗殺者の口封じをするか逃がすか――いずれにせよ生きた暗殺者に接触できる機会はおそらくない。地下牢に侵入しようにも、牢には認証魔術がかけられていて、許可を得た者以外は入れない。その魔術構造は未だ解明できておらず、突破する方法はない。そう考えると自分の無力さに腹が立つのだった。  階段をのぼりきった先にある粗末な木の扉を開けると、そこは宮廷の裏庭だった。日当たりが悪く、花々もろくに育たないその薄暗い庭で待っていた人物に、エバンは目を見張った。  それは深い藍色に染めた儀礼用の衣装をまとったグレイだった。白皙の頬は血の気がなく、目もどことなく虚ろ。口が喘ぐように二度三度と開き、そうして四度目には掠れた声で、ぽろりと言葉だけが落ちてきた。 「エバン、私は、どうすればいい……?」  そうして糸が切れたマリオネットのように、グレイは膝から崩れ落ちたのだった。  時は少し遡る。  リドヴィナの話を聞き終えて、グレイは額をおさえた。確かにそういう魔術が古からあることは、エバンからも聞いていた。だが優秀な術者であっても多大な代償を支払うと聞いていたし、何より世の理に反する――いわば命をもてあそぶ魔術として禁術指定されていると。  けれどもそれを彼女の祖国は彼女に行った。彼女を愛するがゆえに。その気持ちは人として当然かもしれない。だが、だからといって許されることではない。  同時にグレイは思い出した。毒殺されかけたあの披露目の日に、どこか遠く歯車の音が聞こえたことを。それはリドヴィナの胸の奥、本来なら鼓動をうつ心臓のある場所、そこに代わりに据えられた金属の音であったのだと、今ならわかる。  あらゆる状況を鑑みれば、リドヴィナが人形であるという事実が、冗談ではないことは明白だった。  リドヴィナの後ろに控えていたエイデルは、思い出したくないとばかりに、口元をおさえて顔をそらしている。リドヴィナに親しい者たちにとっては、それほどに残酷で惨い思い出なのだと思わざるを得ない。だが一方のリドヴィナは一度目を閉じ、そしてまっすぐにグレイを見つめながら問うた。 「殿下、どうなさいますか?」 「え?」 「わたくしは殿下を――いえ、この国を欺いている罪人です。わたくしを処分なさいますか?」  そう問われて初めて、グレイは己の中にその選択肢がなかったことに気が付いた。処分する――つまり死刑にするという選択肢が。  リドヴィナを見つめ返す。先ほどとは違い、翡翠の瞳には決然とした覚悟が浮かんでいた。事情はどうあれ死罪になることを、彼女はずっと覚悟していたのだ。そして今、どのような断罪からも逃げはしまいと彼女は全身で語っている。それはあの初めて会った日に感じた、誇り高さと峻厳さを持ち合わせていた。  怒り、悲しみ、同情、憐憫――ありとあらゆる感情がないまぜになって、グレイは何も言えなかった。それらはグレイが今までに感じたことのない、すべてのものだった。きっと今までならば、眉ひとつ動かさずに裁判にかける準備をしていただろう。裏切られたことに怒りを、人を見る目のない自分に不甲斐なさを、そのふたつを感じてそれで終いだったのに。  ――大きい鉛の塊を胸に飲み込んだようなこの重苦しさは、いったいなんと呼べばいいのだろう。  それでもグレイは、たったひとつ聞きたいことがあった。 「ひとつ聞きたい。あなたの今までの優しさも、すべて私に取り入るための――この国に残るための嘘だったのか?」  どこか祈るような、哀切の響きのこもったその問いに、リドヴィナは首を静かに横にふった。グレイの口からは自然と「では、なぜ……?」と次の問いかけが出ていた。  リドヴィナ自身も少し困惑しているようだった。まるで、己の気持ちにふさわしい言葉がないといったように。それでもややあって「何を言っても、方便にしか聞こえないとは存じますが」と前置きしながら口を開いた。 「殿下の優しさに応えたいと、思ってしまったのです」  そのひとことに、グレイは目を軽く見張った。 「もしかしたらわたくしは皇太子妃になれないかもしれない。祖国へ帰るか、あるいは死刑になるか、そんな可能性があるとわかっていながら、それでも殿下からひとつひとつ手渡される優しさに、わたくしも同じだけのものを返したかったのです」  侮辱から守ろうとしてくれたこと、訪いのたびに渡される花、朝夕にかわされるさりげない会話、リドヴィナの喜びそうな場所へ連れ出してくれたこと――グレイの心をひとつひとつ渡してくれているも同然の行為に、リドヴィナは惹かれていった。  いっそ心がないのならば、夫婦となっても意思疎通できないから、祖国に帰るという選択肢も躊躇なく選べたかもしれない。だが心を鎧で覆い隠しているだけなのだと気づいたとき、リドヴィナもそれに応えたくなった。  孤独な玉座のために、ひとりきり闘うこの人のために、自分に何ができるのだろう――できたのは、自分の心を同じだけ渡すことだった。それが愛しているということならば、そうなのだろうとさえリドヴィナは思った。  果てはグレイを傷つけることになったとしても、この人の傍にいたかった。人間に戻るすべが見つかろうが見つかるまいが、この人の傍にいたかった。嘘がいつか露見しても、それまでは――そんな身勝手な願いは、自分の父に通じる何かがあった。  愛を理由に他者を、愛している相手さえも、傷つけかねないそんな願い。そして今、それが現実に起きてしまっている。リドヴィナは一瞬だけ唇を噛みしめた。 「身勝手だとはわかっております。……殿下のいかようにもご処断くださいませ」  リドヴィナは頭をさげた。グレイはリドヴィナの言葉をただぼんやりと受け止めていた。  嘘ではなかった。その事実が夢か現か、そんなことはどちらでもかまわないが、とにかくひどくグレイを安堵させていた。けれども同時にやるせないほど胸が痛かった。いっそ嘘だと言われたならば、逮捕に踏み切ったかもしれない。だができなかった。  リドヴィナの語る言葉の、何が真実で、何が真実でないかを、グレイはこの数カ月で汲み取れるようになってしまったから。  結局、グレイにできたのは、曖昧な返答でしかなかった。 「……姫君は暗殺者に斬られて重傷。全治二か月、面会もできぬほど弱っていると公表しておく。処遇が決まるまではこの部屋に」  リドヴィナがゆっくりと顔をあげる。だがその表情は歓喜の表情ではなかった。一方のエイデルは驚きに目を見開いている。すぐ逮捕するものと思い込んでいたのだろう。 「……しばらく出る。何かあれば、アーリンに言いつけるように。外出は乳母殿も遠慮してくれ」  そうしてグレイは部屋を出た。力の入らない足を精一杯前へ前へと動かしながら、どこへ行くでもなく。  そうして気づけば、宮廷の裏庭でエバンと出会っていたのだった。エバンの姿を認めた瞬間、グレイは震える声で問うていた。 「エバン、私は、どうすればいい……?」  そこまで言い切って、ぷつりと何かの糸が切れたように、グレイは膝から崩れ落ちた。
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