第十四節

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第十四節

 次に目を覚ましたのは、エバンの魔術研究室の長椅子の上だった。見上げるほど高い天井には、この国で観測できる星図が描かれている。鼻腔をくすぐるのは濃いコーヒーの香りと古書の香り、耳をうつのは時計の針の動く音。  あれからエバンに支えられてここへ来た。そして気持ちの赴くままにエバンにすべてを話し終えて、それから意識を失った。時計に目をやれば、時刻はまもなく深夜に差し掛かろうとしていた。 「指示の通り、姫君は面会謝絶、殿下もお疲れで今日はお会いできないと公表いたしました」  言いながら、エバンがコーヒーを運んでくる。グレイは身を起こし、長椅子に座りなおした。乱雑に本の乗ったローテーブルに場所を作ると、エバンがカップをふたつそこに置いた。  中身をすすると、苦かった。けれどそのせいか、ぼんやりしていた頭も少しはすっきりしたように思える。向かいに座ったエバンは何も言わない。 「なあ、エバン。私はどうすればいい?」  気づけば地下牢へと続く裏庭でたずねたことを、もう一度繰り返していた。視線はエバンに向けず、カップの中のコーヒーにそそいだまま。ゆらりと揺れる表面には、情けないほど暗い表情をした自分が写っている。  グレイにはわからなかった。これからどうすればいいのかも、何をすればいいのかも、正しいと思えることは何ひとつとしてないように思えた。 「……姫君を、死刑になさりたいと思いますか?」 「したくない……」 「では、祖国にお返しなさいますか?」 「それも、したくない。姫には……」  まるで幼子のように否定の言葉を連ねていくうち、グレイは気づいた。  ――リドヴィナには傍にいてほしい。  自覚した瞬間、目尻から熱いものが流れ落ちた。そしてとても痛くなった。呻き声をあげたくなるほど、心臓が。  確かに残酷な優しさだった。けれども手放したくなかった。彼女への怒りよりも、どうしてか手放したくないという欲のほうが勝った。彼女を祖国に帰したくない。そんな到底理性的ではない願いが止まらなかった。  人形であってもいい、彼女を手放したくない。そばにいたい。優しさがほしい。もう孤独を知っていたころには戻れない。  ――それがつまり人を愛することなのだと、グレイは初めて知った。  ぼろぼろと涙を流し、それを拭う様子すらないグレイに、エバンはひっそりと息を吐いた。  リドヴィナに秘密があるとは薄々気づいてはいたが、よもや禁術で出来上がった人形だとは予想外だった。だがそれならば、人間には留めておけないだけの魔力を持ち合わせているのにも納得がいった。  とはいえ、それがわかったからといって、なんの救いにもなりはしなかった。  グレイとリドヴィナがお互い惹かれていたのは、エバンも知っていた。そしてそれが僥倖とすら思っていた。孤独に戦っていた彼には、惜しみない優しさを与えてくれる相手が必要で、またそんな相手に同じだけの優しさを返すことができれば、エバンがいなくなったあとも人間らしさを失わず、賢帝として君臨できると考えていたのだ。ましてやそれが皇帝と同じだけの地位をもち、公私ともにもっとも近しい位置に立てる皇后であれば、言うことはない。そう思ってなりゆきを見守っていた。  だがそれが仇となった。グレイは自分でも気づかぬほどリドヴィナを深く愛し、そしてそのぶん今痛みを感じている。前にも後ろにも進めず、底なし沼に足を取られたかのようにもがいている。  エバンにはひとつ考えがあった。けれどもそれは希望ではなく、結論を先延ばしにするだけの愚策に成り下がる可能性のほうが高かった。けれどもエバンにも正解はわかりかねた。 「……ひとつ、提案がございます」  だからエバンもまたひどく暗い声で呟いていた。それにグレイはのろのろと顔をあげる。涙はまだ止まっていなかった。 「幸い、殿下は猶予を残されました。その猶予――つまり姫君が面会謝絶の二か月の間に、姫君を人間に戻すすべを探すのです」 「は……?」  グレイはエバンをまじまじと見つめた。まさか魔術研究者の口からそんな非現実的な答えが返ってくるとは思わなかった。驚きで涙も引っ込んだ。 「……まさかとは思うが、巷で流行っている冒険物語の英雄よろしく国中を旅しろというのか?」  そんなことはできない。グレイの立場でそんなことをすれば、大騒ぎになる。公的な視察だと言えば護衛だなんだと付いて、各地の諸侯からもてなしを受け、本来の目的の達成はできないだろう。かといって忍んで行くとなれば、瞬く間にアルト一派から暗殺者が仕向けられる。そしていずれにせよ、リドヴィナをひとりこの城に残していくわけにはいかない。  エバンはグレイの疑問に首を横にふった。 「違います。この国は他国よりはるかに魔術の研究が進んでおります。くわえて先帝の命令のおかげで、他国の魔術研究書を始め貴重な文書はすべて焚書にされることなく、この研究区画に集積されているのです」  祖父の代から始まった軍事遠征で、祖父は征圧した国の文化財の破壊・破損を禁じた。自国が最も秀でているなどとは馬鹿げた幻想、学ぶべきことがあるやもしれぬ、特に焚書は固く禁じ、書籍はすべて研究区画に保管せよと命じていた。そのすべてが遵守されたとは思わないが、おかげでこの国の学術は当時だいぶ進んだという。そして幸いなことにその法律は今も残されている。  とはいえ、それらの書籍は莫大な量であり、エバンたち研究者らが研究を進めていても、いまだすべてを把握できているわけではない。まだ開いてもいない書物の中に手がかりがあるかもしれない――エバンはそう考えていた。  グレイはぼんやりとした頭で考えた。二か月の猶予。その中で見つかる可能性は低い。それでも可能性があるのなら、やるべきではないだろうか。もちろん、リドヴィナがそれを望めばの話ではあるが。 「――明日までに姫君と結論を出す。だが、もし実際研究するとなれば」 「全宮廷魔術師の研究を一度凍結させます。もとより怪しむ者もおりませんでしょうが、幸いこの研究区画にならば監視魔術を張り巡らすことが可能です。アルト殿下らがここで何をしようと感知はできますから」  エバンの提案にグレイは頷いた。となれば、あとはリドヴィナの了承を得るのみだ。 「エバン、礼を言う。……ありがとう」  グレイは立ち上がった。時間はわずかしかない。一刻の猶予もなかった。  そうしてこの部屋に来た時よりかは幾分まともな顔つきで、グレイは自室に戻っていった。
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