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第十五節
「――お話はわかりました。どうぞ殿下のよろしいように進めてくださいませ」
翌朝、リドヴィナとの朝食の席で、昨夜の話を告げた。それはグレイの半ば身勝手ともいえる提案だったのに、リドヴィナは快く頷いてくれた。それがひどく切なくも嬉しかった。まるでグレイとまだ共にいたいと言ってくれているようで。
「ありがとう。す――」
だがその先は阻まれた。リドヴィナの細く白い指が、グレイの唇に当てられたからだ。その動作に思わず目を瞠る。
「すまない、などとは言わないでくださいませ。もとを正せば、わたくしたちが招いたこと。わたくしたちの方こそ、殿下に謝らねばならないのです」
穏やかに微笑みながら、しかし毅然とした態度のリドヴィナに、グレイは残りの言葉をのどの奥で押し殺した。
そうしてその日、宮廷魔術師たちに現在の研究を最小限にとどめ、古書研究に取りかかるよう、皇太子から指令が下されたのだった。その目的は表向きは先帝の指令である「貴重文書の保存及び解読」だが、実態は「無機物を人間にする」いわば禁術の研究であった。
* * *
かつん、かつんと石畳を踏む音が響く。黴と血の臭いが濃く染みついた地下牢には、暗殺者がつながれていた。ありとあらゆる拷問を受けながら、それでも息をしているとは屈強な男である。エイワーズは感嘆交じりにじっと彼を見つめた。
近衛兵のひとりと彼をすり替えることくらい、エイワーズにはたやすいことだった。認証魔術の仕組みはいまだ解明されていないので許可が発行されたあとの改ざんは不可能だが、皇帝が許可を発行する前から人間のほうをすり替えてしまえば、許可を受けるのは暗殺者本人ということになる。つまりは暗殺者が部屋に入ることができるというわけだ。
「……なぜ姫君を傷つけた? あの場でお前が傷つけた人間で、他国の人間は姫君だけだぞ」
暗になぜ皇太子を狙わなかったと訊ねれば、暗殺者はくつりと笑った。
「なれば姫君は王国に帰還せざるを得ないでしょう。傷物の姫君など、誰がほしがる? ましてやシャフィーク国王が溺愛している姫だ、陛下が帰還命令を出してもおかしくはない」
「姫君が狙いか? だがなぜ帰還をさせたがる」
暗殺者はむっつりと黙り込んだ。エイワーズは溜息をついた。このままでは極刑を免れ得ないのに、この男はあらゆる拷問にも口を割らない。今とて、狙いがリドヴィナだとわかったのみだ。だがそれはエイワーズにさらなる疑問を生じさせるだけだった。
――この男、実はシャフィーク国王の臣下なのである。
シャフィーク国王直々にこの男を暗殺者として送り込んできた。国王直轄の暗殺部隊の中から、近衛兵にいてもおかしくない容姿の者をえりすぐったという。
もしもこれが他国からの暗殺者ならば、リドヴィナを帰還させ自国の姫を輿入れさせる狙いがあってもおかしくはない。だがリドヴィナの祖国の、しかも国王直轄の暗殺者がリドヴィナを傷つける理由はどこにも見当たらないのだ。
直轄というだけあって、国王への忠誠心はいっそ洗脳でもされているのかと思うほど強固であり、狂信的であることはこれまでの取り調べで知れた。魔術で追跡させようとしても、その追跡を阻む術がこの男そのものにかけられている。ゆえにこの男の証言以外に黒幕を暴く手立てはなく、けれどもこの男はその忠誠心と屈強さであらゆる拷問に耐え抜いているのだった。
(だがなぜ国王は娘を傷つけてまでも帰還をさせたがる?)
皇太子の殺害は国王の目的ではないということが今回の件で知れた。結果として死んでもかまわないからエイワーズについでで手を貸す――つまり今回も魔術師の邪魔が入らなければ皇太子は確実に死んでいた――が、それより姫君の帰還が目的なのだ。
しかしそれ以外はまったく理由がわからないので、エイワーズは首をひねるしかない。姫君は全治二か月の重傷で面会謝絶とだけ触れが出た。姫君の住まいもそれに伴い、治療をしやすいということで、皇太子の居住区画に移されている。そのような対応をした皇太子の最近の様子からすると、姫君が傷物になったとして手放すとも思い難い。
エイワーズには見えない何かが裏で動いているのか、何もかもわからない。だがともかくこれ以上この男から事情を聞き出すことはできないし、逃がすこともできない。この地下牢には記録魔術が張り巡らされているため、エイワーズとこの男の会話も記録されている。エイワーズが手引きした人間だという事実を永遠に葬るためにも、この男には極刑が下ったほうがよいだろう。しかもそれは都合の良いことに、エイワーズが手を回さずとも、傷つけられた大臣たちの誰かが必ず言い出す。
明日の御前会議はその件で紛糾するだろうと考えながら、もはや用のなくなった暗殺者から視線を外し、エイワーズは踵を返した。
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