第一節 春の訪れ

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第一節 春の訪れ

   さらさらと手元の紙面にペンを滑らせる。そして丁寧に裁可もしくは不裁可の判を押し、書類の山の一番上に乗せ、次の書面を手に取り目を通す。そしてまたペンを滑らせ、判を押し――そんなことを朝から何十回と繰り返しただろう。  ぱたりと静かに扉の閉まる音に、グレイは顔をあげた。入ってきたのは、白髭を豊かにたくわえ紳士然とした佇まいの側近だ。彼――エバンは、グレイの幼少からの教育係で、今は唯一信頼できる右腕でもある。グレイは少しだけ目元を緩ませた。 「どうした?」 「もうまもなくご到着とのことですよ」  なんの到着かと聞き返そうとして、思い出した。今日は自身の婚約者がやってくる日だ。おかげで宮廷中が朝からそわそわと、どこかせわしない空気に包まれていた。  グレイの婚約が決まったのは、年明けまもない頃だった。一年の大半が雪と氷に閉ざされるこの国で、年明けといえばいまだ吹雪の荒れ狂う時分だ。それが今、ようやく雪が降る頻度も減り、川は雪解け水で増水を始め、まもなく春が訪れようという時期にはなっていたから、時の過ぎるのは速い。もっとも他国ではとっくに花が咲き乱れているだろうが。 「……いよいよか」  椅子の背もたれに深くもたれ、窓の外に目をやる。眼下の城門はまだ閉ざされたまま。あの城門をくぐるには、皇帝の発給する身分証明書が必要になる。だがそれはただの身分証明書ではない。発給された本人――この場合はグレイの花嫁――が、その身分証明書を持っていれば、あの門は自動で開く。逆にそれ以外の人間が持っている限り、あの門はけっして開かない。古よりこの城に残された魔術のひとつで、究極の本人確認となる。その魔術構造は未だに完全には解かれていない。  身を起こし、最後の書類に署名をすると、それをエバンに手渡した。 「支度をする。あとは頼んだ」 「御意」  執務室を出たグレイは自室に戻った。幾人かの侍女たちがせかせかと衣装などの用意に走り回っていたが、部屋の主であるグレイの姿を認めると、「お帰りなさいませ」「お仕度でございますね」と頭を一様に下げ、手伝おうとグレイの傍に寄ってきた。  それを「手伝いは不要だ」と一蹴し、彼女たち全員を下がらせる。着替えに仰々しい手伝いは必要ない。衝立の後ろに回り込めば、既に衣装一式が用意されていた。  ブラウス以外、すべて黒の絹地と金糸の縫い取りで仕立てられたそれは、グレイの鋭く硬質な雰囲気をより強調させる。よく言えば聡明さも際立つが、悪く言えば冷酷さも際立ってしまう。  己でもそれがわかるほどなのだから、衝立から出てきたとき、侍女たちがふっと動きを止めて息をのんだのも無理はない。一部の隙もない冷ややかさと無表情の美貌は、まるで氷で造られた彫像のよう。  そしてそれこそがグレイがこの宮廷において、『人形』と揶揄されるゆえんでもあった。  生まれたときに母を亡くしたグレイは、父である皇帝にひどく疎まれた。そしてそれは、母そっくりに成長するにつれて顕著になった。父は、父を毛嫌いしていた母を思い出し、可愛さ余って憎さ百倍とでも言わんばかりに、グレイが世継ぎでありながら冷たく当たった。父でありながら、会えるのは国事の際のみで、あとは放っておかれた。  当然、絶対君主である父の態度はそのまま宮廷の態度となる。侍女たちは世話をおざなりにし、臣下はうわべだけの忠誠を誓い、裏ではひそひそと嘲笑していた。  ――皇太子殿下はただのお飾り人形。美しいだけで、とんと父君に期待されてはおらぬ。この分ではアルト殿下が次期皇帝になるやもしれぬ。  そうしてその通りにグレイは育った。  感情がないわけではないが、表にほとんど出さなくなった。まさしく人形というにふさわしい無表情が、グレイの仮面だった。  幸いだったのは、エバンというよい師に出会えたことだ。彼は宮廷魔術師のひとりであり、かつては母の師でもあった。エバンは読み書きから始め、地理、歴史、法律、政治、武術、宮廷作法、そして魔術と、あらゆる皇帝教育の基礎を叩き込んだ。そのおかげで生き馬の目を抜くようなこの宮廷でも、うまく立ち回り、追放されず、未だ皇太子という地位にいられるのだった。  ――だがたったひとつ、彼でも教えられなかったことがある。それが欠如していることはグレイもわかっている。だからこそグレイは自身を人形と揶揄されても、それはまさしく正論とさえ思えた。  グレイはふと、部屋の片隅に飾られた花嫁の肖像画に目をやった。たおやかな花のように美しい姫君がそこには描かれている。 「……不憫だな」  彼女はきっと蝶よ花よと育てられた深窓の姫君だろう。それに引き換え自分は、尊敬や敬愛や感謝の念というものは知っていても、無条件で誰かを愛し、また愛されるということは知らない。  グレイは肖像画に背を向け、人形の花嫁になる姫君との対面の支度を進めた。  もうまもなく、城門が開かれる頃だろう。
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