第十八節 決断ー2

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第十八節 決断ー2

「戻った」  重厚な扉を押し開けると、リドヴィナはいつものように「お帰りなさいませ」と駆け寄ってきた。ぱちりと暖炉の火が爆ぜる音が耳に届いた。もう暖炉のいらない時分のはずなのに、今夜はいやに冷える。リドヴィナの翡翠の瞳が労わるようにこちらを見つめてきた。思わず目を逸らしたくなる。  ――部屋の中は暖かいはずなのに、グレイの頭の中も体も凍りついたかのように動かない。 「姫君、話がある」  ようやく口に出した言葉には、感情が乗っていなかった。グレイ自身もまるで夢の中をさ迷っているかのように虚ろで、声だけが独り歩きをしているようだった。  いつもなら向かい合って座って話をするけれど、どうにも今日はそんな気が起きなかった。リドヴィナも同じだったらしい。リドヴィナは部屋にいたエイデルに「席を外して」と短く伝えた。『話がある』。そのひとことで、リドヴィナは何かを察したらしい。  控えていたエイデルがふたりの異様な空気に――ぴんと張り詰め、今にも暴発しそうな何かがある――心配そうに様子を窺ってきたが、リドヴィナもグレイもエイデルに目もくれなかった。それで、何を言っても今は跳ねのけられるだけだと感じたのか、エイデルは黙って部屋を出ていった。ぱたん、と扉が閉められ、完全にふたりきりの空間になる。  ――今ふたりのいるこの暖められた部屋は、昨晩と何ひとつとして変わらないのに、もはや休むべき場所でも、ふたりで穏やかな時間を過ごす場所でもなくなった。グレイは短く息を吸って、頭ひとつぶん低い彼女の目を真正面から見据え、そしてかすれた声で話を切り出した。 「あなたを人間に戻すためには、誰かの命と引き換えにしなければならないのだそうだ」  彼女は黙っていた。その次の言葉を促すかのように。  再びすっと短く息を吸って、グレイは淡々と詳細を伝えた。  生きた心臓を魔術で埋め込めば、人形の体が人間の体になるということ。そのためには生きた人間から心臓を取り出す必要があるということ。ただ効果のほどはなく、今現在、魔術師たちがその研究文献を探しているということ――。  けれども肝心のひとことは、喉にはりついてしまったかのように出てくれない。口を開けば遠回しな話ばかりが飛び出てくる。残酷な話をしているにも関わらず、リドヴィナは眉ひとつ動かさなかった。  ついにグレイの言葉が尽きた。唇だけが喘ぐように震える。言わなければならない言葉が出てこない。  沈黙がふたりの間に落ちた。ややあってリドヴィナが瞳を伏せながら、グレイが言うはずだった言葉を口にした。 「……わたくしは帰国することになったのですね」  それは目の前にある決定事項を、ただ確認するだけの言葉。伏せられたリドヴィナの瞳には諦念と覚悟と――そして一滴の切なさが溶け込んでいる。  グレイはそれに是とも否とも答えられなかった。その時点で答えはもう出ていたようなものだ。気づけばリドヴィナの手を取り、言い訳めいた言葉をすがるように叫んでいた。 「あなたを愛している――それだけはどうかわかってほしい」  まるで巷の安っぽい恋愛小説のようだとさえ思った。けれどもそれ以外に言葉が出てこない。愛している――それだけがグレイの気持ちを証明できる唯一の手段だった。  グレイは本当ならばリドヴィナを帰国させたくなどなかった。何と引き換えにしても、傍に置いておきたかった。だから悪魔の考えすらも頭の中をよぎった。――暗殺者の心臓を死刑がてらえぐり抜いて使ってしまえばいい、と。法律で死刑の方法は決まっているが、生きながらにして心臓をえぐり抜いたとて、きっと誰も何も言いはしまい。だが言えなかった。  暗殺者に同情したわけでは決してない。成功率のほどが立証できないからでもない。己の良心はどぶに捨てたってかまわない。  ただひとえに、リドヴィナに対して最後の最後くらい、誠実でありたかったからだ。  生きた心臓を埋め込んで人間に戻って――そうしてリドヴィナは何を思うだろうか。きっとグレイに対しては、礼を述べ、人間に戻ったことによる幸せを甘受している姿だけを見せるだろう。けれども微塵も後ろめたさを覚えないと言えるだろうか。心臓の持ち主だけではなく、もしも罪なき魔術師も死んでしまったならば、リドヴィナはどう考えるだろう。もう既に一度、彼女のせいではない負い目を背負っているリドヴィナは、またいくつか負い目を背負うこととならないだろうか。  結果がどうあれ、今までのような一点の曇りもない幸せなど存在しない。きっとリドヴィナは魔術の犠牲となった命に後ろ暗さを感じながら生き、グレイはリドヴィナが本当に幸せか延々と考え続けることになる。  口に出さずともお互いがお互いに負い目を持つ幸せのために、グレイの身勝手が許されることはない。もうこれ以上、リドヴィナにリドヴィナのせいではない負い目を負わせることは許されない。  だからグレイはエバンに告げた。 『姫君の帰国を。姫君には私から告げる。公表はそのあとだ』  ……けれどもリドヴィナを傷つけたことには間違いない。  リドヴィナの瞳に映る自分は、今にも泣きそうな顔をしていた。自分が傷ついているのではない、傷ついているのは彼女の方であるはずなのに。なまじ期待を持たせてしまったのは自分なのに。それなのにどうしてこんな諦念に満ちた静かな表情をしているのか。いっそ罵倒さえしてくれていいのに、どうして何も言わないのだろうか。 「殿下」  ややあってリドヴィナはそっとグレイの手を握り返し、彼女の頬へと導いた。触れた頬は相変わらず温度が低い。しかしやわらかさと感触は人間そのものだ。  それでも彼女は人間ではないのだという。その体は年老いることなく、人間としてのあらゆる不自然さを備えているのだという。その事実に、胸が切りつけられたかのような痛みを覚えた。  リドヴィナの、人間といささかの違いもない、ふっくらとした唇が開かれる。 「正直に申し上げれば、わたくしとて人間に戻りたいのです。わたくしも殿下のお傍にいたい――けれど、どうして愛している殿下に苦しみを背負わせられましょう」  グレイの目が見開かれた。リドヴィナはグレイの言葉からどうやってかグレイの気持ちを掬い上げた。 「もとよりわたくしが招いたことです。仮にその魔術を使って人間に戻ったとして、殿下はわたくしが本当に幸せかどうか疑心暗鬼になられることと思います。わたくしのせいでそうなることは、本望ではございません。ですから、人間に戻って殿下を苦しめるより、人形のままあった方がわたくしもまた幸せなのです」  別段強くも弱くもない淡々とした口調だったが、次第に声は泣きそうに揺らいでいった。何かをこらえるように、彼女が瞼を閉じる。きゅっと唇が引き結ばれる。  リドヴィナの並びたてた理由のどれも、グレイと同じだった。グレイを愛しているからこそ、負い目を背負わせたくないのだという。だからもう人間に戻ることは望まないという。  痛かった。心臓に無理やり、鉄の棒で穴をあけられるように。お互いを好いていて、それでもお互いが幸せになるためには別れなければならない、その矛盾に。  ややあって彼女が再び目を開けた。ふわりとまるで花が開くように微笑む。 「けれど殿下、どうかお間違えなきよう。わたくしは確かに幸せなのです。死の先の生を望まれるほどに慈しまれ、ほんの少しの間とはいえ殿下、あなたにこれほどにまで愛されて」  そう言いながらリドヴィナの瞳が揺らぐ。彼女の本心をそこに垣間見た刹那、もう真正面から向き合うことはできなかった。  リドヴィナを引き寄せ、きつく抱きしめる。頬を熱いものが流れ落ち、彼女の肩口に降りかかった。むき出しの心臓を乱暴に握りしめられたかのように胸が痛んで、呼吸もままならない。言葉を口に出そうとしても、嗚咽だけがこぼれていく。リドヴィナはなされるがまま、そっと背中に腕をまわしてくれた。  曇りのない幸福だけを知りたかった。あるいは揶揄されていたとおりの、人形のままで――それこそ無機物のままでいればよかった。そうすればリドヴィナが無機物であっても、これほどに動じなかったはずなのに。  けれどもリドヴィナはすっかりグレイを変えてしまった。人を愛すること、真に愛することは相手の幸せを願うこと、誠実でありたいと思うこと――けれどもその結果、リドヴィナはグレイの掌からすり抜けていく。グレイにたくさんの幸福感と思い出と彼女の気持ちとを残して。  仕方ない、仕方ない――そうグレイは己に言い聞かせた。一方で嫌だと叫ぶ自分もいた。まるで子供が駄々をこねるのと同じ。嵐のような感情が駆け巡って止まらない。  やがてグレイの肩口にもまた、冷たい雫が落ちて、ぽたりと染みを作った。リドヴィナは何も言わなかった。黙ってグレイを抱き返した。  リドヴィナの胸の奥から、かちりかちりと歯車のまわる音が響いてくる。人間にはない音、心臓の代わりの音。 その音と自分の嗚咽だけが繰り返し耳の中に残っていた。
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