終章 最後の時間

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終章 最後の時間

 リドヴィナの帰国の日は秋がようやく深まろうという頃合いだった。ちらほらと雪が降る日が増え始めた時分で、これ以上滞在を伸ばせば街道が雪に閉ざされるため、来春まで出立がかなわなくなる。  グレイはひとり城外まで見送りに来ていた。来たときとは異なり、ひっそりと帰ることとなったので、グレイの他に見送りの者もない。城内にいるうちは、エバンやアーリンらが別れを惜しんで見送りに出ていたのだが、グレイがそこまででいいと止めたせいもある。街道に入るところまでは自分が見送るから、と。  茶や黄や橙に色づいて落ちた葉が、からころと風に吹かれて地面を転がっていく。リドヴィナとグレイは何を語るでもなく、ただ休憩がてらふたりで馬車から少し離れたところに佇んでいた。おそらくこれが真実最後の、ふたりだけの時間だった。  リドヴィナは来たときと同じく美しかった。粗末な旅装に身をつつんでいるが、それがかえって彼女の清楚で凛とした雰囲気を際立たせている。だが言葉はない。翡翠の瞳は憂いを含み、伏し目がちだった。  グレイは、今このとき何を言うべきかわからなかった。一リドヴィナをこのまま城に連れ帰ってしまいたいという衝動に駆られそうになるのに、どうしても離れがたかった。連れ帰ることはできなくても、永遠にこの時間が続くならそれでもいいとさえ思った。  しかしそれにも終わりが来る。 「姫君、お時間ですよ」  御者がそう声をかける。乳母のエイデルも馬車の中からこちらを窺っていた。「今、参ります」そう告げ、リドヴィナは最後にグレイをまっすぐに見つめた。 「殿下、どうかお元気……」  その言葉は最後まで言うことができなかった。リドヴィナは軽く目を見開き――そして委ねるように瞳を閉じた。グレイが彼女の手首をつかんで引き寄せ、唇を重ねたから。別れの言葉はグレイの唇に飲み込まれていった。  もちろんグレイとて無礼だとは先刻承知である。突き飛ばされることや叩かれることくらい覚悟していたが、リドヴィナは拒絶しなかった。唇を離し、代わりに優しく抱きしめれば、背中に腕をまわしてくれた。まるで時を惜しみ、グレイの気持ちを受け止め、そして自分の気持ちをすべて彼の中に残していくように、彼女もまたまわした腕に力をこめた。  初めて出会いその誇り高さと純真さに惹かれた春、毒薬に倒れ生死をさまよいながらも生還した初夏、ふたりで出かけた夏の湖、他愛ない話をして過ごした朝も夕も、けれどももう二度と訪れない。これから先、幾千回、幾万回、太陽が昇り沈んでいき、同じ季節や時間が巡ってきても、もうこれほどに鮮やかな時間はありはしない。  ややあって身を離すときには、もう永遠にリドヴィナに触れることも、会うことさえも叶わないのだという事実に、胸が締め付けられた。名残惜しみながら、それでも最後に手首を離したそのとき、グレイは自分の心も手放した気さえした。 「姫君……」御者の催促に、ついにリドヴィナが馬車に乗る。馬車の窓のカーテンが中を覆うように引かれ、リドヴィナの姿はすっかり見えなくなった。御者が馬に鞭を打ち、馬がいなないて走り出したらば、馬車はもう止まらない。  グレイは街道の向こうにリドヴィナの乗った馬車が見えなくなるまで、そこに立ち尽くしていた。
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