第二節 待ち人来る

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第二節 待ち人来る

 花嫁との対面は、皇帝への謁見も兼ねて玉座の間で行われる。玉座へ続く赤い絨毯の両側にはずらりと居並ぶ貴族たち。いったいグレイの花嫁はどのような人物か――ことに皇帝がばらまいた肖像画が、あまりにも美しく描かれていたために、その容貌に注目が集まっていた。 「シャフィーク王国、リドヴィナ姫のご到着です」  小姓が告げ、扉が内側に開かれる。ざわめいていた貴族たちがぴたりと口をつぐみ、しんとした静寂が場を支配する。そしてやわらかな絨毯へそっと足が踏み出された。  その瞬間、誰もがはっと息をのんだ。『人形』とうたわれるほどに、何事にもなかなか動じないグレイさえも、驚きを禁じえなかった。  背に流れ落ちるふわりとした栗色の髪、真珠のように白く透き通った肌、整った目鼻立ち。折れてしまいそうなほど華奢でほっそりした肢体は、白に金糸で刺繍の施された衣装に包まれている。漆黒の衣装に身をつつんだグレイが冬を体現しているのなら、彼女は春を体現していると言えた。  そして正直なところ、誰もが思った。彼女はどのような肖像画にも表すことなどできない、完全なる美しさを持っていると。それはさながら、腕のいい造形師が造った人形のように。  けれども人形と決定的に違うのは、そしてグレイの目を何よりも惹いたのは、その翡翠の瞳だった。少しも臆さず、まっすぐに玉座を見つめている。足取りも迷いがない。  彼女は玉座からつかず離れずの、謁見で定められた位置まで来ると足を止め、ドレスの裾をつまんで腰を折り、頭を下げた。その所作さえも、流れるほどに美しい。 「皇帝陛下にはご機嫌麗しく。お目にかかれたこと、光栄に思います」  水を打つように、その凛とした声音は玉座の間に響いた。グレイが皇帝にちらりと目をやれば、皇帝は玉座に頬杖をついてにやにやと笑っていた。だが、それには情欲の色など含まれていない。どちらかといえば、皆の反応を楽しむようなものだった。 「遠方からよく参られた。頭をあげよ」  姫が顔をあげる。「これがあなたの未来の夫だ」と、皇帝が玉座の斜め前に立っていたグレイを顎で示す。グレイはつと前に進み出た。姫の視線がグレイに、そして広間中の視線がふたりに注がれる。 「お初にお目にかかります。グレイです。無事に到着されて何より」 「ありがとうございます。殿下にお会いできる日を心待ちにしておりました」  本当にそうだろうか。グレイは内心、疑義を生じた。お互い噂と肖像画の中でしか会ったことのない相手だ。なんと聞かされてやってきたかは知らないが、夢見がちな姫君であれば、その期待を裏切ることは間違いない。 「お似合いですこと」「これはさぞ美しい御子がお生まれに――」そんな囁きが広間中をひたひたと走った。今から世継ぎの話をされても困る。これは早々に切り上げるべきか。グレイは皇帝を振り返った。 「ところで父上、姫を部屋にご案内してもよろしいか。長旅でお疲れの姫に、長い謁見などかえって非礼かと存じますが」 「ふふ、珍しく気に入ったか? 『人形』のお前が心動かされるとは」  瞬間、広間がしんと困惑に静まり返った。未来の皇太子妃の前で、皇太子を揶揄する言葉を堂々と放ったのだから、それも無理はない。皇帝だけが楽しげに身を揺すっている。  皇帝は姫のほうを向いた。 「のう、姫。これは感情を出さぬ人形よ。感情がなくては、無機物も同然。無機物の花嫁になるお気持ちはいかがかな?」  それは姫をも侮辱する言葉だった。戸惑いが広間中に広まる。さすがに看過できず、グレイが口を開きかけたそのとき。 「陛下」  戸惑いの静寂を打ち払うような、威厳に満ちた声が響き渡った。それに皇帝が思わず気圧されたのも見て取れる。姫はその隙に言葉を紡いだ。 「わたくしは、わたくしの意思でここにおります。誰に強制されたわけでもございません。死ぬことも、逃げることもできたわたくしが選んだ道は、殿下に嫁ぐことです。たとえ殿下が人形であろうと、わたくしは殿下の妻になります」  まぎれもなくそれは、誇り高き姫君の言葉だった。己を侮辱することは、たとえ皇帝であろうと許さない――そんな強さが秘められていた。  そして、姫の瞳がグレイを捉え、その雷光のようなまなざしに射抜かれた瞬間、グレイの背筋をぞくりと何かが駆け上った。痺れるような、ぞくぞくとした甘い未知の感覚だった。恐怖? 違う。嫌悪感? 違う。考えても残念なことに答えはなかった。  だがそのまなざしもほんの一瞬のこと。すぐに和やかなまなざしに戻り、グレイに淡く微笑みかける。まるで先ほどの威厳が嘘のよう。 「殿下、わたくしをご案内していただけますか?」  グレイははっと我に返った。そして皇帝を振り返ると、皇帝も我に返ったようだった。「あ、ああ、かまわぬぞ」と、たどたどしい答えが返ってきた。 「陛下のお心遣いに感謝いたします。では殿下、お願いいたします」  姫は軽く一礼し、グレイの手に、レースの手袋につつまれたたおやかな手を重ねた。 「父上、失礼いたします」とグレイはそのまま姫を連れて、さっさと広間を退出する。誰しも止めることはなかったし、また何も言わなかった。それほどに姫は、広間の空気を一変させてしまったのだ。  広い回廊を西の塔に向かって歩き出す。グレイは歩いている間中、無言だった。何をどう話せばいいのかわからなかったからだ。適当に道中のことでも話題にしておけばいいのに、なぜかできない。それどころか姫をまともに見ることさえもできない。そして心臓がどくどくとうるさい。この音が姫に聞こえていないか不安になるほど。早く西の塔に案内して別れたいところだったが、かといって疲れているであろうリドヴィナを急かすわけにもいかない。  結局終始無言のまま、西の塔にたどり着く。姫の部屋の扉を押し開けると、そこにはこざっぱりと整えられた最上の客間が用意されていた。ふたりが部屋に入った瞬間、壁に掲げられた蝋燭や暖炉に勝手に火が灯る。その様子に、姫が驚いた声をあげる。 「これは……」 「この城に残る、古の魔術です。人の存在を感知して、勝手に灯ったり消えたりするので、慣れないうちは驚くかもしれませんが……」  そこでグレイは姫の手を握っていたことに気づき、さりげなくその手を離した。だがなぜかその手を離しがたく感じた。いったいなぜだろう。  姫と向き合えば、姫はその翡翠の瞳でじっとこちらを見つめている。その視線になぜかそわそわと落ち着かない。今までエバン以外に、真正面からグレイを見つめる者はいなかった。見ているものはグレイではなく、常にその後ろの皇太子という地位、玉座でしかなかった。  沈黙しているのもなんだか心苦しく、グレイは苦し紛れに口を開いた。 「ところで、あなたには言っておくべきことがあります」  振り向いて姫と向かい合う。姫は少し首を傾げた。それはなんの話か先を促す仕草にも思えた。 「今、この国は冬が明けたばかりです。ですから、私も多忙ゆえになかなかこちらへ来ることができないのですが、それはあなたがどうというわけではなく……」  そこまで言って、グレイは己にぎょっとした。何を口走っているのか、自分でもわからない。なぜこんな言い訳めいたことを口にしたのだろう。自分の行動に混乱していると、姫のこぼした笑い声が耳に届いた。それは嘲笑ではなく、優しく響く慈しみのこもった声だった。 「殿下、お気遣いありがとうございます。わたくしのことはお気になさらず」 「ですが到着したばかりなのに、申し訳ないと」 「では代わりにひとつ、お願いをしてもよろしいですか?」 「なんでしょうか」  お願い――宝石やドレスといった装飾品の類だろうか。この宮廷にいる女性はそういったものを好む者が多い。  だが、姫の願いはグレイの予想とはまったく違った。 「この国の魔術を学びたいのです」 「魔術?」  姫は頷いた。 「この国には先ほど到着したばかりですが、我が国より高度な魔術が存在していることは、明らか。興味をそそられました。もちろん門外不出とあらば、致し方ございませぬが」 「いや、一部の魔術をのぞけばそんなことはありませんが……。わかりました。師を手配させるので、姫のお気のすむようになさってください」  すると姫の顔が嬉しそうにほころんだ。グレイはその笑顔に戸惑った。何せ、このような女性を今まで見たことがない。誇り高く、威厳に満ちているかと思えば、屈託なく笑いながら魔術を学びたいのだとグレイに願う。  いったいどちらが本当の彼女なのか――グレイは目の前の女性にほんの少し首を傾げた。
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