第三節 ささやかな変化

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第三節 ささやかな変化

「戻った」  グレイはぱたりと執務室の扉を閉じた。控えの机で仕事をしていたエバンは顔をあげる。グレイの表情はいつもと変わらぬポーカーフェイス。だが、以前のような、氷の彫像のような冷ややかな雰囲気はどこにもない。  自身の机について書類仕事を始めようとしたグレイが、エバンの視線に気づいて首をかしげる。 「どうした。さっきからこちらを見て」 「変わられましたな」 「何がだ?」  エバンはふと口元を緩めた。エバンの問いの意図がわからないのか、怪訝な表情をする若き皇太子。自身に変化があったと未だ自覚がないらしい。それもまた若さゆえと言えるだろうか。  リドヴィナがやってきて、早一月が過ぎようとしていた。この国の冬は終わりを告げ、花がようやく咲き乱れ、木々は木の芽を息吹きだす――そんな風にして日々は過ぎていった。  エバンは、そんな一月を思い返した。 『宮廷魔術師の中から、姫君のために師を選んでやってくれ。この国の魔術を学びたいのだそうだ』  姫君との対面を終えて執務室に戻ってきたグレイは、開口一番にそうエバンに告げた。グレイの師であり、忠実な臣下であり、また宮廷魔術師の長でもあるエバンは、異を唱えることはなかった。唱えることはなかったが、実際ひどく驚いた。 『姫君が学びたいと仰せになられたのですか?』 『ああ。それがどうかしたか?』  その返しで、エバンはこの皇太子が、理由も問わず、何の見返りもなしに何かを――たとえそれが形のないものであっても――姫にくれてやったのだと理解した。  いつもの皇太子なら、そのようなことはしない。見返りがあってもなくても、皇太子に何かをねだる者には注意せよ――そう教えて育ててきたのは、他でもないエバンだ。それはこの宮廷に蔓延る私利私欲にまみれた臣下たちから、身を守るための教えではあったけれど。  その数日後、エバンは宮廷魔術師の中でも優れた――それでいてグレイの不利になるようなことは口外しないような、忠誠心も高い女性魔術師を選り抜き、グレイとともに姫君を訪った。 『彼女はアーリンと言います。女性の宮廷魔術師の中ではもっとも優秀なので、なんでも聞いてかまいません。アーリン、よろしく頼んだぞ』  グレイがそう姫君に女性魔術師のアーリンを示せば、姫君は礼を言ってにこやかに笑んだ。そしてその笑みにグレイが少しまじろいだのを見た瞬間、エバンは直感的に悟った。  今回のことはエバンの教えに従って、姫が警戒に値しない人間だという、見下し侮った結果ではなく、逆の――自覚こそないが、つまり彼女に惹かれているという結果だと。  長年この宮廷にいるエバンからすれば、姫君は確かに異端で異質ともいえた。屈託がなく優しい笑み、しかしそれでいて誰にもおもねることも媚びることもない誇り高さが、端々から滲み出ている。  媚びもしない、何かを見返りに要求するでもない、それなのに真正面からグレイを見つめる――そんな経験はグレイにとって初めてだろう。それにグレイが惹かれていくのも無理はなかった。 『生活に何か不都合はありますか?』『いえ、皆さま大変よくしてくださるので、特にはございません。ありがとうございます』そんな業務的なやり取りをすること自体も、いつものグレイとは違った。少なくとも侍女たちや、夜会に呼ばれた貴族の令嬢たちに、あのように細やかな気遣いを見せたことはない。  無論それは、未来の皇太子妃である彼女と、侍女や国内の貴族を同列に扱えないという、彼なりの配慮ということもあるだろう。だがそれだけではないと、エバンは感じた。  その日以来、グレイはたびたび姫君を訪った。そして姫を訪うごとに、グレイの雰囲気はやわらいでいった。  表情が変わるわけでもなく、臣下への態度が変わるわけでもない。それでも二度目の訪いの時、グレイはわざわざ庭園で自ら花を切ってきた。不躾とはわかっていながら、そのときは思わずまじまじと見つめてしまった。エバンの視線に気づくと『姫は花がお好きなのだそうだ』と、弁解のように呟いていた。  そんなことがあってから、エバンが魔術研究室に戻ったところ、若手の男性魔術師であるダレルが、亡霊でも見たような面持ちで茫然としていた。『どうした?』と聞いたら、彼はこう答えた。 『いや、皇太子殿下から「女性には何を贈るものなのか」って聞かれまして……。あの皇太子殿下がそんなことを聞くなんて、俺、夢でも見てるのかと思いまして。でも俺、元は庶民なんで、花やお菓子しか贈ったことないんですよね』  平民出身のダレルにとってグレイと直接話すことはそもそもあり得ないことだし、何より『人形』と揶揄されているグレイにそんな俗なことを聞かれるとさえ思っていなかったのだろう。ダレルは失礼がないようにと冷や汗ものだったはずだ。その様子が目に見えてエバンは思わずふっと笑いをこぼしてしまったのだが、『やっぱり俺失礼だったですかね!?』とダレルをさらに慌てさせてしまった。 『いや、失礼には当たらない。あの方はそういうことで怒る方ではない』と言いつつ、ダレルの言葉でエバンはすべてを理解した。  気になる女性との距離を近づけたい、だけれどその方法がわからない、そこでエバンではなく年の近い同性の臣下にその方法を相談する――この宮廷の中においては異質だが、この宮廷の外ではごく当たり前の青年の在り方であった。  それはまぎれもなくグレイにとって僥倖だった。自分が教えることができなかったもの――無償の愛、無条件に誰かを愛すること、そのための過程。そんな当たり前のことを、グレイはもっとも望ましい形で得ようとしている。  このまま何事もなく時が過ぎればいいと、エバンは願わずにおられなかった。だが、そうはさせないのがこの国の皇太子の地位ともいえる。  グレイはエバンの提出した報告書を見て溜息をついた。 「叔父上が動き始めた、か」 「御子が生まれたことも拍車をかけておられるのでしょう」  そこに記されているのは、叔父であるアルトとその側近たちの密談の様子だった。もっともこうしてグレイやエバンに知られているのだから、密談とも呼べはしない。 「姫君のご様子は」 「今日も変わりなかった。食事も毒見を手配させているから、今のところ問題なさそうだが」  グレイが日々、リドヴィナを訪っている目的は、彼自身が気づいていない感情の他にもうひとつ。アルトやその臣下がリドヴィナに何か仕掛けていないか確認するためだった。  アルトに子が生まれたのは、年明けだ。自分を、あわよくば子も帝位につけたいと望む叔父と、その後見一族であるアルドリッジ一族は、グレイを幼少の頃から排除しようと目論んでいた。アルト自身は、現皇帝――つまりグレイの父親の異母弟であり、いわゆる庶子だ。ゆえに現皇帝の直系血族がいる以上は、帝位につくことができない。  そしてアルドリッジ一族はこの国における由緒正しい大貴族である。庶子であるアルトは領地も資産もないが、後見についているアルドリッジ一族――特にその長であるエイワーズの直接の後ろ立てが大きい――のおかげで、現在まで皇族の地位にあるのだった。  付け加えるならば、アルトの妻はエイワーズの実の娘である。アルトが即位すれば、エイワーズは皇后の父となる。つまりエイワーズを筆頭に、アルドリッジ一族は宮廷を実質的に支配できるのだ。そんなアルドリッジ一族の利権も絡んで、グレイは幾度となく命の危機にさらされてきた。  それでも今まではグレイを排除さえすればよかった。だがここに来て、グレイの婚姻が決まった。そして皇太子妃が子供を産めば、もはや帝位など望めない。そう考えたアルトとエイワーズが、リドヴィナに危害を加えないとも限らない。  ちなみに愚帝と称される父に、アルトの処罰を乞うことはかなわない。初めてアルトが暗殺を企てたとき、その証拠を並べて父に直訴したならば、その証拠を見もせず鼻で嗤った。 『それで?』  そのひとことで、グレイの父への敬意がいっさい失せたのを覚えている。それまではわずかにあった、もしかしたら父が己を愛してくれているのではないかという期待もともに、すべてが霧散した。  皇太子暗殺はれっきとした重罪である。けれども父はグレイが死んでもかまわないくらいには思っていて、結局その証拠がありながら叔父たちの罪をつまびらかにすることはなかった。  アルトたちに手は貸さない。かといってグレイを自ら殺しはしない。だからといってグレイの命を積極的に救うこともしない。以後アルトたちがグレイの暗殺を企てても、父は今に至るまで黙殺し続けた。結論として父は完全な敵でもないが、味方にもなりえない。父の為したいことを邪魔する、あるいは父の命を脅かす、そんな事情でもない限り、この城で起きているお家騒動には目をつぶるつもりなのだ。 「次に何か仕掛けるとしたら、来週の披露目か?」 「可能性は高いでしょうな」  グレイは机上の書類の山から、披露目に関する書類を引っ張り出した。グレイとリドヴィナの婚約を国内外に広める催事。大勢の人間が集まる場所こそ、不審死が出たとしても事故として処理されることが多い。  だがグレイにはずっと疑問に思っていたことがある。 「この婚約を取りまとめたのは、エイワーズのはずだが、何も叔父上の継承権を遠ざけるような条項を盛り込む必要があったのか?」  現在は婚約段階だが、それとて一国の姫君の地位を左右する一大事だ。事実、リドヴィナがやってくる間にも西の塔を改装したり、リドヴィナのために侍女たちを配備しなおしたりと、費用と手間がかかっている。そうしてやってきたリドヴィナをグレイもろとも暗殺、もしくはグレイだけを暗殺し帰国させるなど合理的ではない。  そもそもグレイ以外に皇帝の子供が生まれないようにと、グレイの母亡き後に皇后や寵姫がいないのもエイワーズらの策略だと聞いている。そんな徹底した合理主義者であるエイワーズのやり方とはとても思えない。  エバンもそれは常々思っていたようで、ひげを撫でながらうなずいた。 「シャフィーク王国のほうが是非にと望んだ可能性もありますね。王族の女性の――ましてや直系の姫君となれば、嫁ぎ先にも苦労しますから。そしてもしそれを盛り込まないのであれば軍事協定を結ばないと言えば、エイワーズも呑まざるを得ないでしょう。こちらのお家騒動と、軍事協定と、天秤にかければどちらが皇帝にとって重要かなど目に見えていますからね」  王族の女性の嫁ぎ先は、たいてい国内の大貴族か諸外国の王族ということになる。もし適当な相手がいなければ修道院入りも珍しくない。とはいえ直系の姫君にそれでは世間体があまりよろしくない。シャフィーク王国にとって協定が渡りに船だったと考えれば、確かに納得のいく話ではある。  そしてグレイの父は、軍事遠征にしか興味がない。内政はほとんど諸侯らに任せているといっても過言ではない。たかだか婚姻ひとつで協定が結べないなどと馬鹿げたことを言えば、おそらくエイワーズの首が飛ぶだろう。父は己の欲に忠実な人間だ。  そう考えれば確かに辻褄はあう。グレイは溜息をひとつこぼした。 「披露目は来週、か」  何事もなければいいが、何事もないわけがない。  過去の話を予測していても仕方がないので、グレイはエバンと対策を練り始めた。
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