第四節 ひととき

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第四節 ひととき

 さあさあと優しい雨だれの音が響く。グレイは窓から外を見やった。  あいにくの披露目の日だが、雨となってしまった。とはいえ、この国において春の雨は喜ばしいものとされている。雪が降らないほどに暖かくなった証拠であり、植物の成長を優しく促すものだからだ。  この雨で披露目の儀式は、外で執り行うものだけ中止となった。ゆえに今日の披露目の中心は、各国の大使や王族の名代を招いての謁見と晩餐会である。国民への披露目を兼ねたパレードはまた後日ということになった。  そんな中、控えの一室で、グレイは最後の支度を整えていた。宵闇を溶かし込んだような、黒に限りなく近い瑠璃色の衣装。縁取りは金糸。一見ただの豪奢な正装に見えるが、そこかしこに隠しがついており、ちょっとした短刀や解毒剤ならば仕込める仕様になっている。  仮にも一国の皇太子の衣装とは思えない――そんな自嘲が口の端に浮かんだとき、ドアが控えめに叩かれた。「どうぞ」というグレイの声に応答して、扉が独りでに開かれる。そして侍女頭に誘導されるように入ってきたのは、リドヴィナだった。グレイは思わずその姿に息を呑む。  いつもは背に流している髪がすっきりと結われ、その細い首筋がいっそう華奢に見える。雪のように白い額やほっそりした手首を飾るのは、触れてしまえば壊れてしまいそうなほど、繊細な金細工。そして若草色の衣装は、彼女のやわらかく優しい雰囲気をより引き立てていた。  グレイの視線に気づき、リドヴィナがにこりと微笑む。グレイは慌てて視線を逸らした。そしてその行動に戸惑う。社交辞令として「綺麗ですね」とでも言えばいいのに、なぜか出てこない。のどがからからに乾いて、声が貼りついてしまったかのよう。これでは非礼極まりない。しかしリドヴィナはそれを不快に思わなかったらしい。 「お似合いでいらっしゃいますね」 「え?」 「お衣装です。殿下は黒髪に黒い瞳でいらっしゃいますから。淡い色より濃い色のほうがお似合いでいらっしゃると」 「あ、ありがとうございます」  あながち世辞でもない、そのまっすぐな言葉に、グレイはしどろもどろになる。何かを言わねばと視線をさまよわせていると、リドヴィナの髪に目が止まった。そこには真珠のピンがいくつか飾られていて、それはそれで美しいのだが、今日の主役としては控えめすぎるような気もした。いかんせんこの国の女性たちは、こういう儀式となると思う存分着飾ってくるのだから。  グレイは控えの部屋にあった花瓶から、つと一本の白薔薇を取り出し、適当な長さで茎と棘を折る。そして首をかしげている姫の髪に「失礼」とその白薔薇を差し込んだ。  刹那、彼女の髪が指先に触れる。たったそれだけ――ほんの数十秒のこと、しかも幾筋かだけが指に触れただけなのに、離しがたく思われた。姫の体からほのかに香る、香油のせいかもしれない。それでも精一杯の理性で指を引きはがした。  リドヴィナはきょとんとし、そして壁にかけられていた鏡を覗き込んだ。幾分華やかになった髪を見て、心底嬉しそうに笑み、グレイを振り向く。 「殿下、ありがとうございます」 「いえ。その、姫によくお似合いで……」  ようやくそう言えたとき、カーンカーンと鐘の音が響き渡った。……披露目の時刻を告げる音。同時に、グレイの心がかちりと切り替わる音がする。もうここから先は油断できない。 「では、参りましょうか」  グレイが姫に手を差し出すと、初日と同じように重みのある温かさが乗せられた。扉の前に立つと、この部屋の主を認識して扉が独りでに開く。グレイはすっと一歩を踏み出した。
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